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波長だけはどうにもならない

 先日、友人から相談を受けた。聞けば、ここ最近彼女と別れたくなっているらしい。パートナーのいない身からすると贅沢この上ない話だが、真剣に聞いてみると、どうやら細かい会話のズレが気になるそうだ。

 二人でいる時に、彼が会話の流れで使った単語の意味が彼女には分からず、説明が必要になったという。このような事例が頻発するらしく、長時間共に過ごすこと、もっと言えば将来を考えた際に、この違和感を抱えながら暮らしていくことは難しいと感じたようだ。

 本来、相談事を他の方に公開するのはマナー違反だが、個人を特定できないように書くことを条件として快く記事化を受け入れてくれた友人に感謝する。以下、この件について僕の考えを記していこうと思う。



 たったそれくらいのことで?と思う方もあるかもしれない。僕も、そんな理由でお別れすることになるのは勿体ないと一度は思った。が、良く考えてみると、この問題は決して軽視できない。コミュニケーションは無数の会話から成立し、その言葉の交わし合いにギャップが生じたとなれば、円滑に生活しづらくなる。表向きは困っていなくても、細かな差異がどちらか、あるいは双方のストレスの蓄積に繋がるのは状態として良くない。



 どこかで聞いた話だが、素の状態で会話のキャッチボールが成立するIQ差は20程度らしい。それ以上二人の間の知能の開きが大きくなると、どちらかが合わせにいかなければならない(この場合、知能の高い方がそうでない方に下りることになる)ということになる。確かに以前、京都大学に通っている知人と飲みに行ったことがあるが、ところどころ会話の難しい部分があった。彼は無意識に話していたと思うが、頭の回転と知識量に差があるとどうしても嚙み合わない部分が発生するものだ。


 断っておくが、学歴が高ければ無条件に偉いわけではなく、知能が高ければいいわけではない。これは個人の価値の話ではなく、1対1で向かい合った時の相性の話である。特に頭の回転、口から出てくる単語のレベルと速さに差があると、どうしても苦労する。友人とのコミュニケーションですらそうなのだから、況や恋人同士だとなおさらだろう。

 「性格の不一致」を理由に離婚をする、という夫婦の話を聞いたことは一度や二度ではない。学生時代はなんだよそれ?と思っていたが、学生でなくなり、また様々な方との交流を経て、感覚が少しは理解できた気がしている。性格というよりは「感覚の不一致」という方が正しいように思う。他人に対する感情の機微を覚える思春期に所属する高校や大学は、一部の例外を除けば入試によって似たレベルの人間が集まる。性格の部分は別として、会話がスムーズに立ち行かないという経験はほぼない。稀にあるズレも、異なる家庭に育ったので文化が違う、といった程度だ。


 しかし、社会はそうではない。お世辞にも頭の切れる人間とは言えない方も大勢いて、一方で常人には考えられないようなスピードで思考を組み立てることが可能な方も存在する。同じくらいのリズムで過ごせる人間だけで構成される組織などあり得はしないのだ。

 それでも人間は、共同生活をして生きていくものだ。持ち合わせる感覚が大幅に異なる人間ともやり取りをしていかねばならないし、それができる種族だ。表向きは合わせる、ということが(協調性に個人差はあるがある程度は)できる生き物だ。だからこそ、感覚の差異は深く付き合わないと判明しない部分もある。


 幸い、と言っていいのかわからないが、現代日本は結婚するか否か、パートナーを持つか否かが当人の自由に委ねられている。特に若い世代では、独身を貫くことに対する違和感は薄まっていると感じるし、誰とも婚姻関係にならずに生活することも可能な世の中だ。そんな中でも結婚したい、この人と生涯を共にしたい、と思うのならば、僕は、感覚のズレは極力ない相手との方が良いと考えるのだ。

 仮に高収入でルックスの良い方とお付き合いすることになっても、価値観が合わないと難しい時期を過ごすことになってしまうし、仮に価値観が似通っていても、僕に相談をした友人のように会話がうまくいかないと、どこかで関係は破綻するだろう。仮に30歳で結婚したとして、残りの平均50年余もの時間を火種を抱えて過ごすのは大変なことだ。


 繰り返すが、これは個人の価値を決めるものではない。僕には到底理解できないような頭脳の持ち主も、僕の思考と言葉が全く読み取れない人間も(これは僕の表現の仕方が悪い部分もあるだろうが)、人間としての評価が上下することはない。世間には切れ者の大悪人も頭の弱い善人もたくさん居るのだ。ただ、親しく、深く付き合うとなれば話は別だ。できるだけ近しい波長の人間と一緒に居た方が楽かつ面白い。こればかりは勉強してどうにかなるものではなく、持って生まれた性質がモノを言うと思っている。

 僕は友人との何気ない会話の中で、連想ゲームのようなことをよく行う。例えば、居酒屋で(度々酒の話で恐縮だ)注文した日本酒が新潟のものだった時、「新潟といえば米、あとバスセンターのカレーよな、アルビレックスの練習場は聖籠町ってとこにあるんよ、聖籠町って自治体名としてカッコ良すぎるやろ、でも大分の玖珠町も身近やけどよく見たらカッコいいよな。そういえば玖珠の高校に行ってた○○元気かな~」くらいのことを一息で話してしまう。いつも、また誰にでもそんな面倒な会話を仕掛けるわけではないのだが、脳内ではこの手の連想がよく行われる。僕が全くもって脈略のない話をしているのを聞いたことのある方もいるかもしれないが、そのメカニズムは連想なのだ。途中を飛ばして喋ったりするから、脈略のない発言になってしまう。それはそれで僕の反省点だ。

 ともすれば面倒な会話だが、僕と何度も遊んでくれている友人はこの単語百本ノックに乗ってくれたり、会話を止めずに聞いてくれる。それは趣味嗜好や今までに触れてきた文化が近くて単語が理解できるから、という理由もあるだろうが、「ついてきてくれている」というのがとても大きい。意図しないところで会話が止まることがないから、快い言葉のキャッチボールが成立するのだ(と僕は思っている。友人たちも楽しいと思っていてくれるといいのだが)。


 僕の理想の話になってしまったのでタイトルに立ち戻って整理すると、関係において最も重要なのは会話であり、それもリズムやワードセンスといった「波長」だ。この「波長」のズレは努力でどうにかなるものではない。友人をはじめ、パートナーとの会話に違和感を覚えた方は、一度関係を考え直した方が良いと僕は思う。前述の通り交際、結婚が絶対ではない時代だ。無理して付き合うと辛いことも増える。不義理を行わなければ、それを強引に耐え忍ぶ必要はない。


 結論として別れ話を勧めたが、結果として交際し続けるのも悪くない。ズレも含めて大切にしたい、愛していると言われてしまえば、それを止める必要はどこにもない。精神的に無理をするのは良くないが、相手を好いているのであれば、それを引き離すような真似をするつもりはないのだ。


 と、パートナーの居ない人間が一丁前に3,000文字近く書いてしまった。彼女と別れを考えているなど、いまの僕からしたら贅沢も甚だしい悩みだ。僕は理想論を記したが、おそらく世のカップルは悩み、苦しみながら愛を深めているのだろう。人の相談に乗るには己の人生経験が乏しいのが残念だ。

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