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7305日

年に直すことの、実に20年。

気が付いたら、経過していた。
実感は無い。感慨も無い。心こそ上を向いているが、特に自分が主役でどうするみたいな話をしてるわけでもないから今日という日はなんてことなく日常の中に溶けていってる。それゆえの何も無さ。
ただ、それについてマイナスの感情も一切無い。
別にそれで良い。あくまで個人的な話で、それに対してわざわざ何かを感じいってくれる、そういった人がもしいるとするならば、それがそもそも俺にとっての至上の幸いなのだろう。

何の話か分からないだろうから説明をするけど、20年前の2004年8月29日に俺は生まれて初めて、エレキベースという楽器を手に入れた。

当時中学3年生、バスケットボールを部活動でやっていた俺はそこでなかなかいじめられていた。みんなと同じ動作をしているだけで、俺だけが笑われる。そこにいる皆の取ってつけた常識に少しでも外れていたら一方的な糾弾が始まる。最終的には俺の存在そのものが無かったことになっていて、練習中俺にパスが来ることが無くなっていた。ボールに触ることのない試合も多々あったし、聞こえるように存在を否定されたこともあった。

ただそれによる負の感情は、俺一人が全てを飲み込めば良いと思って部活動はずっと続けていた。
意地だった。兄が同じ部活をやっていた手前、俺だけが途中で投げ出すとなった場合にそれをダシに一生馬鹿にされる気がしていたから。
結果的に引退前最後の試合くらいのタイミングで顧問が変わり、それまでの俺を見て見ぬふりしなかった先生が俺をことをちゃんとチームに入れてくれていたのでなんとか壊れずに済んだが、そんな今考えても危うい精神状態の中でしっかりと厨二病も拗らせていた俺に音楽とギターとの出会いは特に運命的でもなんでもなく、自然なものとして気が付いたら部活を引退したその日にすぐ、家に置いてあったギターを手にしていた。

音楽の目覚め、それにおける最初の楽器はギターだった。
学校に行けば精神を病み、家に帰ればそれをひた隠す。そんな日々に聴いた尾崎豊という歌手は俺にとっての救いであり支えで、ちょうど部活動を引退する頃には「俺もこうありたい」と、しっかりと憧れていた。
引退試合が終わって、その日に尾崎豊の全ての曲が収録された楽譜を買いに行った。使うコードの少ない曲を片っ端からコピーしていった。ひとつ出来るようになると、他の曲もそれまでに覚えたコードの応用で次々と出来るようになり、どんどん曲を覚えていった。
これまで運動でも勉強でも、2人いた兄に勝てなかった俺が唯一「これなら絶対に負けない」と確信を持って打ち込めるものが見つかった。元々音楽や歌が好きで若干の素養があったのも大きかったのだろう。これまでの鬱屈をぶつけるようにのめり込み、且つそれを不本意に腐されないという状況が当時の俺には無敵感を勘違いさせるのに十分過ぎるものだった。

そんな俺を見て、長兄が色々な音楽を聴かせてくれたのが今思い返すときっかけだった。
「尾崎豊もいいけど、他にも良い音楽は沢山あるぞ!」と、実家を出た兄がたまに帰って来た時に、CDやライブビデオ(当時まだVHSのものもあった)を俺に観せ聴かせてくれた。その中にあったのがRed Hot Chili Peppersのアルバム「グレイテスト・ヒッツ」だった。

この中に収録されている『Give it away』と『By the way』という曲に衝撃を受けてしまったわけだ。これはベーシストなら皆納得すると思う。俺のベースのルーツはここにある。

こうしてそれまで見向きもしていなかったエレキベースという楽器に対してこんなに格好良いものなのかと感激した俺は、それ以降上に貼ったMVやライブビデオを観てベースのフレーズをコピーしていた。しかし手にしているのはエレキギター、でもそんなの関係なかった。コードを鳴らして歌を歌うのもいいけど、そんなことよりベースを弾きたい。この格好良さに少しでも触れていたい。自分もこんな格好良い音を出せるようになりたい。

時期は夏休み、周りはどんどん部活動を引退して高校受験へと意識を向け始めている頃だった。俺も例に漏れず受験勉強をしつつ、合間にギターを弾いていた。
正直、高校受験に関してはそこまで根詰めて勉強をした覚えはない。普段は仲の悪い兄達が珍しく口を揃えて「よほど志望校が偏差値高いとこじゃないなら夏休みは遊んでても大丈夫だよ」という感じの事を言っていたので、それを鵜呑みにした俺は適度に遊んでいた。といっても、周りは真面目に受験勉強していたし、友達も殆どいなかったのでもっぱら一人でギターを弾いて歌って、レッチリのライブビデオを観てベースのフレーズを分からないながらになぞっていた。

そんな俺を見て、またしても長兄が家に戻ってきた際に「お前、ベースに興味あるの?」と訊いてきた。
俺はそれに二つ返事で「あるよ。ベース弾きたい」と答えた気がする。
ただ、この時はエレキベースというものに触れた事がなかった。大昔、父親が仲間とバンドをやることがあった時にメンバーが弾いているのを、見た事がある程度。楽器屋も地元には小さなお店しかなく、記憶はおぼろげだがそこにエレキベースは置いてなかった気がする。
俺は当時まだブラウン管だったテレビに映ったものでしか、エレキベースという楽器を認識できていなかった。映像もVHSで、どんなに近くで観たってその詳細な形なんて画質の荒さでよく分からない。ただそこから低く格好いい音が放たれている。それだけは分かる。ゆえにどこか幻のような、自分の中で妙に神格化されてて憧れの楽器。そんな感覚すらあったと思う。

その話をした数日後だった。
8月29日、夕方に突然電話がかかってきた。長兄からだ。
もしもしと、電話を取る。


「おう、お前ベース弾きたいって言ってたよな?

俺の友達でベースを2本持ってる人がいたから、1本弾いてないなら俺の弟にくれねえか?って訊いてみたんだ

そしたら、いいよって言ってくれてな

今からその人の家まで行って、ベースを取りに行くぞ。すぐ準備しろ!」


その人の家は近かった。自転車でおよそ5分、挨拶もそこそこに俺はベースを手渡され「ちょっとネック曲がっちゃってるけど、勘弁して」的なことを言われ、夢見心地の状態で気がついたら、家にいた。

画像は拾いものだが、これと全く同じ色とスペックのベースを貰った

ここから、俺がエレキベースと共に生きる日々が始まったのだ。


それが、今からちょうど20年前。
日数に直すこと実に7305日の間、俺はエレキベースと共に生きている。

楽しいこともあったが、この楽器を演奏することを生業にしようと決心してからはいつしか嫌なことの方が多くなった。
それでも自分がこの楽器を演奏している時は、人生で一番楽しい時間である事が多かった。それは今でもそう。今後も現状、その気持ちは変わらないものだと思う。
気がついたら人生の半分以上もこの楽器と共に生きているし、そうである以上この楽器を手放したら自分に残るものなんて何もない空っぽなんじゃないかと想像すると正直ゾッとする。

だから、というわけでは決して無いけどもう少しだけ、この楽器を続けていこうと思っている。
正直、ちょっと前までは今日この日で俺のベース人生を終わらせようと思っていた。嫌な事だったり、何も無い日々が続いたりでもう俺がわざわざこの楽器を弾き続ける理由はどこにも無いなって思っていた。

けど、それでもやっぱり俺は音楽が好きで、エレキベースは体の一部であるように演奏できて、それを好意を持って観てくれる人がいる。
ひとまずは、この事実を頼りに今も生きている。

そしてこれからきっと、その事実に対する答え合わせをするように俺は音楽をやっていくと思う。
その答えを擦り合わせた時に、もしかしたらこの生活を終わらせるという決断はするかもしれない。日に日に、その想いが巡ってくる頻度が近くなっているのも事実としてある。
その度に自分が生きた歴史と、それに触れた誰かの感情を思い出しながら、その答えが本当に自分にとっての正解かを精査するだろう。その時に、続けるという判断を再度下した際は、またどこかで音楽を奏でているだろうから、その時は是非聴いてほしいなと思う次第だ。


度々になるが、2024年8月29日で俺はベースを弾き始めて丸20年が経つ。色々あったけど、今俺が言えるのは

まだもう少しだけ続けるので、今後とも遠く近くで観ていてください。

と、それだけです。

そして、それにちなんで5年前に書いた自伝をひとまとめの記事にしてます。そのうち非公開にするつもりなので、今のうちに読んでみてください。殴りたくなるほど長いんで暇な人か俺のことが大大大大大好きな人以外にとっては時間の無駄だと思います!

9月2日にマガジン購読者限定にしました


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