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歴史・人物伝~人物エピソードetc

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人に歴史あり・・・歴史を語るなら人物を語りましょう!「歴史・人物伝」マガジンでは、過去の連載コラムのほか、人物にまつわるちょっとしたエピソード、そのほか雑記コラム等をまとめていま…
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#織田信長

歴史・人物伝の連載コラム まとめ読み一覧

歴史・人物伝で過去にコラムを連載し、○○編としてまとめたマガジンを整理・削除いたします。…

歴史・人物伝~「戦国ヒストリー」掲載コラムをご紹介③上洛を目指した今川義元と武田…

昨年から戦国ヒストリーという日本の歴史に関するサイトへの投稿を続けています。専門家、歴史…

歴史・人物伝~「戦国ヒストリー」掲載コラムをご紹介②信長公記の織田信長

昨年から戦国ヒストリーという日本の歴史に関するサイトへの投稿を続けています。専門家、歴史…

歴史・人物伝~エピソード編⑰:織田信雄「凡庸と言われても信長の血統を残した武将」

織田信雄は織田信長の子であり、嫡男の織田信忠とは母親が同じきょうだいになります。つまり、…

歴史・人物伝~エピソード編⑯:織田信忠「武田攻めの総大将を担った信長の後継者」

織田信忠は、織田信長の嫡男として早くから後継者に据えられてきました。本能寺の変で信長が横…

歴史・人物伝~エピソード編⑭:今川義元「海道一の弓取りと言われた武将の実像は?」

昨年放送された大河ドラマ「麒麟がくる」の前半のハイライトとして桶狭間の合戦が描かれました…

歴史・人物伝~エピソード編⑬:朝倉義景(後編)「時代の先が読めなかった武将」

朝倉義景は、足利義昭を庇護していたのにもかかわらず、上洛を決断できませんでした。周囲の状況などの理由があったので、決して「KY(空気が読めない)」ではなかったのですが、その後の行動は「KY」と言われても仕方ありません。 将軍となった足利義昭は、周辺大名に上洛するよう命じました。もちろん、織田信長の意向であったことは言うまでもありません。それに対し、義景は上洛に応じませんでした。この判断が、義景の運命を変えてしまったのです。 信長は、朝倉討伐を決行します。一度は浅井久政・長

歴史・人物伝~エピソード編⑫:朝倉義景(前編)「名門の戦国大名は『KY』だったの…

足利義昭を擁しての上洛を成功させた織田信長と、常に比較対象されているのが、越前(福井県)…

歴史・人物伝~エピソード編⑩:荒木村重の妻「黒田官兵衛が幽閉された有岡城と運命を…

摂津(大阪府)の領主で織田信長に臣従していた荒木村重は、本願寺攻略戦の最中、本願寺とつな…

歴史・人物伝~信長飛躍編⑮戦国大名のトップに躍り出る

織田信長の圧倒的な軍事力で上洛を果たした足利義昭は、念願の第15代将軍となりました。京の…

歴史・人物伝~信長飛躍編⑭信長の実力を見定めた松永久秀

残任で勇猛な人物のことを「梟雄(きょうゆう)」と評しますが、戦国時代を代表する梟雄の一人…

歴史・人物伝~信長飛躍編⑬三好三人衆を各個撃破していく

※先週お休みしましたので、3月2日の第12回以来となります 足利義昭を奉じて上洛を目指し…

歴史・人物伝~信長飛躍編⑫上洛の関門となる近江を制する

足利義昭を美濃に迎え入れた織田信長は、義昭を奉じて上洛するための手はずを整えます。三好一…

歴史・人物伝~信長飛躍編⑪足利義昭と織田信長の歴史的対面

殺された前将軍・義輝の弟である足利義昭は、京を支配する三好一族を追い払い、将軍宣下と京奪還を願いますが、頼みとしていた越前の大名・朝倉義景は上洛の軍を出す気配がありません。 そこで義昭は、織田信長を頼ることにしました。この時、信長との間に入り仲介役を務めたとされるのが明智光秀だと言われています。光秀は朝倉家の元におり、将軍家とも知己の関係だったようです。 信長公記によると、義昭と信長が対面したのは岐阜市の立政寺で、義昭を迎えるにあたり、銅銭千貫文(現在の価値で約1億~1億