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留学とルッキズム

日本。ずっと容姿を気にして生きてきたのは、容姿を褒められることが多かったから。でもそのおかげか、美容が好きになって化粧が好きになった。次はどこを綺麗にできるか考えるのも楽しみ。

途中でぶつかった壁の1つは、肌の色。ちょっとイエローな肌は、その頃の日本の女性像にそぐわないものであった。外に出ているわけじゃないのに、冬なのに、なんで小麦色なんだろう。これは常にわたしの頭をまとわりついた。

留学したくなったのは、語学が好きだったのが始まり。親族で留学している人がいて、どんな世界があるのだろう、と思ったのも1つ。でも1番の理由は、新しい世界にいけば、自分って受け入れられるんじゃないか、という期待。

多様性と挑戦の社会を選んだ。それまで生きてきた世界では、、毎日整えて外に向かうことが前提だ。綺麗な身体であること、綺麗なスタイル、綺麗に見えるメイクを研究することは日常。日常化していたその行動は続く。

3ヶ月後。服装も現地に慣れた。初めてヒールを履いて学校に向かった日。初めて容姿に対して声をかけられた。なにか特別なことがあるの?「そうそう、このあと面接があるの」

真っ当らしい理由で、相手の、そうなんだ〜、を引き出すことができた。日本を唯一思い出した経験。

着飾る必要のない環境で、着飾るのは恥ずかしいこととなった。わたしは着飾りたい。

だから、最後は自分がどう思われたいか。どのような人と一緒にいたいか。どんなところで過ごしたいか。なのだと知る。

自分が心地よいと思える服装や、ちょっとしたこだわり、は同じこだわりを貫く誰かに届く。

そして同じように、みんな許容ができる範囲とできない範囲がある。

身体を綺麗に保つことが日常化していた私にとって留学のその期間は、自分にとっての怠惰とも捉えられる。着飾りたい、がわたしの願望だからだ。

そこで初めて、周囲とこだわる部分が違うことを知り自分を受け入れる。わたしはこれをこだわることが大切だと思っている、ことが大切なのだ。

どこでも至るところで、組織のなかで、環境のなかで、少し違うことをすることは、反感を持たれる。乱される。

だから、自分が周りに反感を感じてしまうときは、自分がこだわりを押し殺している時。

だからこそ、違和感、を感じた時は自分自身を振り返らなければならない。自分の深い意識に集中することは、自身の本当の美しさを感じられる力を育てるはず。

人は誰もが美しい。美しいと知っている人に出逢うと、美しさに魅了される。美しい、、はっとする。はっとさせられる人との出逢いは、自分を振り返る大切な機会。

それは、実は、容姿でもセンスでもなんでもなくて、ただ澄み切った空気感の共有なのではないかと思う。

そんな人が仕掛けてくる、落ち着く、心に触れる、美しさは、空気感が醸し出す。なんでもなく努力と集中の結晶であると思う。目指し、深く深く生きていたい。

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