大人の目、子供の目

僕らにとっては些細な決断も、子供たちにとっては人生を左右するほどのことになるかもしれない。

努力は必ず報われてほしいと願う。自分が深くかかわった人には特に。

頑張っている人が報われるべきだと思う。自分なりに頑張った、ではなくて他人から見てその頑張りが見える人のことね。

努力とか頑張りとかを評価するのは本当に難しいし、できれば全員が同じ条件で平等な評価を受けられるようになればいいんだけど、そうでないことの方が圧倒的に多い。

挫折の経験とか悔しい思いとかが人を成長させると言うけれど、長い目で見たら確かにそうかもしれないけど、その言葉をこちら側が安易に使うことはよろしくないと思う。

その人が好きか嫌いかで決める、ってのは嫌だ。そもそも人を好きとか嫌いとかそういう目で見るのが嫌い。自分にとって本当に嫌な奴はいるけど、そうでない人を好き嫌いで評価したくない。

カワイイとかカッコいいとかのルッキズム精神にも反吐が出る。こちら側の目は常に中立であるべきだ。

頑張っていない人を救おうとも思わない。頑張っている、頑張っていないの境目は常に示されていて、それができないなら頑張っていないと判断されてもしかたないよね?自分を常に良い方向に変えようとしない人も好きじゃない。

「自分なりの努力」を否定することはしないけれど、「自分なりに努力しています」と言う人は苦手。本当に努力している奴は、努力していることを他人に言うのが恥ずかしいという感情が芽生えるはず。特に結果を求めるならなおさら。

僕は基本的に、他人に期待することをしない。ただその人が頑張ってくれるといいなと常に願うことはしている。

それでも自分とかかわる全員が救われてほしいと願う。なぜなら自分は今まで他人にたくさん救われてきたから。

同じ努力でも、「自分なりの努力」はほとんど報われないことを覚えておくべきだ。「他人が認める努力」のみが報われる。なぜなら結果という形で表れるのは、自分の外で決まるものだから。自分なりの努力に対する結果は、自己満足でしかない。

自己満足で満足できるタイプの人ならそれでいいと思うし、それもアリだと思う。その人にとって理想でない結果が表れた時に、文句を言う資格はないけど。

テストの点数やスポーツの勝敗のように、結果が数字などで表れる単純なものなら考える必要すらない。でもそうではない物事を決めるとき、その決定のプロセスは非常に大事なものになると思う。

どれだけこちら側が、自分の時間を削ってまで思案したとしても、結局全員が納得できる結論に達することはほぼ無い。ギリギリまで思案して、最後は嫌われる覚悟で決定する。それがどれだけ痛いことか、その痛みを知ることが大人になるってことかもしれない。


大人の目を持つには、他人の痛みを知ること、そして何かを決断したときに自分の中に生まれる痛みを知ることが必要かな。


さて、今日も世のため人のため自分のために頑張ろう!よい一日になることを願って。

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