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毎日の供養は、心の支えでもあるんだね

身内の話で恐縮です^^;

3月下旬に父が亡くなりまして。
前立腺がんから始まり、帯状疱疹、認知症と進んで、ラストは非結核性抗酸菌症とかいう怪しげな病気を乗り越え、「ほぼ老衰」という理想形で天寿を全うした我が父ちゃん。

86歳という年齢と、薬の副作用のしんどい状態と、容赦なく進行する認知症に苛まれながらも、家で家族に看取られながら、本人も魂が肉体を離れることができたのは、本人にとっても(恐らく、、^^;)家族にとってもよかったなと感じたこの度の節目。

とはいえ、最も身近に介護してきた母は、やっぱりなんかかんか後悔があるようで、葬儀後1週間程は泣き暮れていましたね。


私の妹には、もういつ死んでもいいかな、とボソッと呟いていたようなので、延命はご勘弁を!と父は思っていたんだろうと推測しますが(笑)、それでも病院に連れていきたがっていた母には、なかなかそんなことは言えなかったとみえますな~お疲れ様でした~!お父さん(>0</ 

こんな超個人的家族事情ですが、一か月経とうしている今、気づきがいくつかあったので、少しずつ書いていきたいと思います。

「飲食」は残されたものの心の支えになる


葬儀後、泣き暮れていた母ですが、今はなんとなくおさまっています。
娘の見えないところで泣いていることはあるでしょうが(私だってまだメソメソしますから)、当初の頃よりは気持ちも落ち着いている様子。

近所の人の声掛けがある、訪ねてきてくれる人がいる、現実的な手続きが山積みである 等々。。。気持ちが外に向かうきっかけはいくつかありますが、もう一つ大事なことがあることに気が付きました。



毎朝のお供えの食事作り。
「飲食(おんじき)」というそうですね。

なんせですよ、息を引き取る10日程度前から、死の兆候が~そろそろかも~であるのにも関わらず、前日には「ホタテのレモンクリームソース」という、あのこってりした洋食をペロッと平らげてたわけなので、家族としてはこりゃまだ大丈夫だな、と思っていたわけですが、さすがにね父ちゃん、限度が~^^;

最後の最後でそれだから、記憶も「食べる人」で終わってる。だからなのか、お供えの食事も超豪華。。。毎朝頑張る母~


大変そう?いえいえ、お供えは亡父にとっても先祖にとっても大事なことには違いないことだけど、実のところ、残されたものにとっても大事なことなのだと気が付きました。


食事のお供えする行為をすることで心を保てる、更に癒される。

毎朝ご飯を炊く、炊事をする、おかずを作る、お供えする。
これはとりもなおさず、故人、先祖とつながる儀式のようなものであると同時に、残されたものが時間と生活のリズムを取り戻す、平常に戻って過ごすために有効な行為なのではないか、とね。


故人に「今日は何もないけど、大根煮たからね」などと言いながら皿に大根をもって田楽味噌などかけている母を見ていると、黙々と手先を動かし、日常に気を払う心持ちは、人間にとってこれほど重要なことかと思わずにはいれません。

それは母だけでなく、私も勿論そうなのですが、あれこれ言いながらお供えすると悲しみよりも得も言われぬ別種の楽しさが込み上げてくるような気さえするのです。もうすでに懐かしいような、天とつながっているような感じ。。。。

「しきたり」って面倒に思いがちですが、実に理にかなっていることなのだと改めて認識したのでした。確かに仏壇やお位牌を前に行うことではありますが、この作法の根本的理由は宗教とは別のところにあるのかもしれないとも思ってしまいます。
むしろ気持ちの収め方、その出来事を受け入れるために有効な儀式・作法といってもいいかもしれません。

さて、今は四十九日に向けて奔走中。家族は博識な仏具屋のおじいちゃん店主に癒されて帰ってきています(^0^
ここでも更なる気づきがも待っていました。
また後日お伝えしま~す。

お読みいただきありがとうございました!





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