見出し画像

「運気があがる〇〇」にすっかり興味がなくなった件

「運気がアップする〇〇」「運気がよくなる▲▲」「〇〇をして運気をあげませんか?」「運気をアップさせて夢を叶えませんか」「運気をアップさせる××の3つの方法」etc。。。

「運気」は確実に存在すると思っているので、運気アップのノウハウ・テクニックらしき情報には興味津々でした。ところが、2か月前くらいから、なぜか全く「運気」という単語に反応しなくなってしまいました。


何があったのかしら、私???


2ヶ月前といえば6月下旬。2度目の、母にブチ切れ事件が発生し、父の介護から手を引くと決めた時だ。母への境界線をより一層太くして、あなたはあなたの、私は私の人生に突入したとはっきり自覚した時。 
 
 
そうはいっても、別に絶縁したわけでもなく、父の様子を見に行ける週末は実家に行くので、恐らく対外的には何も平穏に見えるはず。 
 
 
しかし、心の中はというと、実家との境界線が太くなり、極太の毛筆で力強く横棒をしたためるが如く、グワッと決定的に線を引いたわけです。線の太さ、10センチくらい!?
母との境界線を太く引き直した結果どうなったのか?という話。 

 

境界線を太くして「腹が座った」結果…

 

境界線を太くしたら、考えることが一つ減りました。

仕事→日々の暮らし→実家、の思考のルーティンから、「実家」がなくなった結果、思考のスペースにゆとりが生まれ、より自分に対する思考が増えました。まぁ、完全になくなったわけではありませんが、無理して手伝わない、と決めたことは心理的に大きな決定ですから、その分、心の負担が減ったわけです。

でも、これだけで「運気云々」が気にならなくなったわけではないと思います。 

 

境界線を太くした結果、一番大きな効果は恐らく「腹が座った」ことではないかと推察しています。 

 

私は私の人生を生きる。それはつまり、全ての意味で「自立」すること。
今まで自立していなかった、というこでは決してありませんが、しかし、どこかで母を立てていたと思うのです。いや、立てることは悪いことではありませが、ひょっとすると「立てる」=「譲る」=「機嫌をとる」になっていた可能性があるのです。

 

そうなると、精神的には自由ではありませんよね。どこかで束縛が生まれる。しかし、それを断ち切ることで、言葉通り、「自分の人生を生きる」、真の自立を求められることになる。何があっても自分の責任。それはつまり自分の人生に責任を持つこと


腹が座ったら、途端に「うるせ~やるったらやるでぃ~!」っと。

 

運気がよかろうが、悪かろうが、それも含めて自分であり、それを受け入れながら、そんなことが気にならないくらい自分に集中して生きていく。 

 

半ばやけっぱちのような感覚なのかなとも思ったりしますが。。。笑 
でも、そこには自分に対するほのかな嬉しさが含まれていることも発見しました。 

 

いいじゃない、自分で。運が悪くても良くてもいいじゃない。何者かになろうとしなくてもいい。丸ごと自分を受け入れる、ということはこういうことなのかな、とも感じるわけです。 

 

やけに清々しい~。初めての感覚。笑


こうなると、今までいかに自分以外の評価基準で生きてきたかを思い知るわけです。特に母基準だったんだと思いますが、なんと馬鹿なことをしてきたのかと。


そのレールに自分を乗せようと頑張ってきて。何者になろうとしてたんだろう。。。どんなに頑張ったって、良くも悪くも自分にしかなれないんだものね。そしてレールに自分を乗せようとして、何かを学べば自分以外の何者かになれるような気がして、、、なんてことまで気が付いてしまったよ。


何者にもならなくていい。これが等身大の自分てやつでしょうか。
そして等身大でいることは本当は楽なのだということも発見しました。
これが自分を受け入れるってことなのでしょうか。



それでね、気が付いたら「運気があがる〇〇」に興味がなくなってたのです。たぶん焦らなくてもいいはずです。正しく自分に集中したら、たぶん運気は勝手に上がっていくのではないかと思うのです。。。



今までの私、よくやってきたね。これからの私、感謝と共に。どちらも共にありがとう。


最後までお読みいただきありがとうございました!




   



 

 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?