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神は細部に宿る、の「神」は人間なのでは?と思った件

こんばんは、再スタート見守り人のぽりんです。 
 
人が面倒くさいと思うこと、やりたがらないこと、それから、ほんとにほんとに小さな感謝や振舞いにこそ神が宿るんではなかろうか、と先日突然沸いてきたことがありました。

神が宿るとどうなるか。雷に打たれたみたいに、とか、いきなり悟りの境地に、とかいうことは恐らくなくて、最初にそこに流れるのは、一見みただけでは白かグレーが見わけもつかないような、明るい微細な良きエネルギー。目を凝らしてみるとわずかにほんのり明るい光をはなつような良きエネルギー。

きっとそんなことが積み重なって明るさが増して、光もどんどん増していくのではなかろうか、神がそこかしこにどっさり増えていくのではないかと思ったわけなのです。

誤解を恐れずにいえば、恐らく、心からの「気遣い」「気をまわす」「心づかい」などもこの範疇に含まれるのかな。

なぜ急にそんなことを感じたかといいますと、実は先日父の四十九日の法要後、4人の甥っ子たちの行動があまりにも違っていて、心象はこういうことに影響をうけるし、その人の周りのエネルギーも作られてしまうかも、と思うことを目の当たりにしたからなのです。

「神」は結局のところ「人の意識」!?


幸運というのは、結局「人」が運んでくれるものでしょうから、「人」のために汗を流せる人、「人」を気遣える人に神が微笑むのは合点がいきます。「ありがとう」の一言でさえ、神が宿ってるのかもしれません。

4人の甥っ子くん、一人は就活中の大学生。スマホを持たない祖母(私の母)のためにGWに一緒に出掛けた際に撮った画像の写真を持って登場。法要は半ばイベントと化したため(汗)、法要もそこそこに美味しいお弁当で盛り上がり美味しいものをたらふく食べて解散したわけですが、次の日に「ありがとう」と彼から電話がありました。

一方の大学生の甥っ子くんは人の行き来する階段に面倒だからと自分の荷物を置いて、危ないので別の場所に移動するようお願いしても自分主張がとまらず。。。

かと思えば、寝っ転がりながらひたすらスマホゲームが止まらない高校2年男子、こちらが食事だと呼びにいくと「ありがと~」と満面の笑みの若干17歳末っ子男子。

おいっ!と思ったり色々とむずがゆかったりハラハラしたりするんだが、親心としてはみんな元気にまっすぐ育ってほしい~とおばさんは祈るよ。

まあ、こんなことが色々あって心象というのはほんの少しのことで決まってしまうものなんだと改めて思うわけです。些細なことに目を向けて気持ちが沸いたら行動するとその先には必ず受け取ってくれた人の心の現象があり、そしてまたそれに影響される人の意識があるんですよね。

目の届かない細部に対して心を向けて行動すると、そこには「神」という名の人間の意識がその心を受け取ってくれて、それが積み重なることで行動を起こした本人も想像がつかないような良き現象や奇跡が起こる、ということなのかなと思いました。

考えてみれば感動を与えるのも受け取るのも人間ですものね。
奇跡を起こす存在を「神」としたわけで、その元になるのは心を受けとる人間の意識なんだな、きっと。

最後までお読みいただきありがとうございました!





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