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狙わずに狙う

 前回、作為と無作為について書きました。何かを達成しようとするとき、目標に向かって取り組んでいくわけですが、意識的に狙いすぎるとかえってうまくいかないということがあります。

 例えば、スポーツでも似たようなことがあります。先ごろのワールドベースボールクラシックでもそうでしたが、ここぞというところでヒットを打たねばならないとか、守り切らなきゃならないという、見ている方もハラハラドキドキするような局面がありますね。あるいはサッカーでも、試合がもつれてPK戦になり、試合の勝敗が自分の一蹴りにかっているというような場面で、当事者であるプレイヤーはとてつもないプレッシャーにさらされるであろうことは容易に想像できます。

 もちろん、プレイヤーはヒットを打ちたい、あるいはゴールに入れたいという強い願いを抱くわけですが、狙えば狙うほど体が硬くなり、かえってうまくいかないということがあります(一流のプレーヤーはそんなことはないのかもしれませんが)。さりとて、入らなきゃ入らないでいいや、などとうそぶいてしまえば、気迫や集中力までもが抜けていってしまうでしょう。

 昔、オイゲン・ヘリゲルというドイツの哲学者が、日本で弓道を学んだ経験を『弓と禅』という本にしました(その本を読みなおそうと思ったのですが、見つからないのでうろ覚えな記憶で書きます)。もともと西洋の弓術の心得があったヘリゲルは、当然のことながら的を狙って弓を放ちます。しかし、弓道の師範は的を狙ってはいけないと指導します。的に当てたいという意識が、体の自然な動きを阻害してしまうということなのでしょう。日本的あるいは東洋的な発想になじんでいるわたしたちは、なんとなくわかるという気がしますが、あくまで理論的・意識的にアプローチする西洋文化で育ったヘリゲルは、的を狙わないでどうやって当てられるのかわかりません。そこで師範は、ヘリゲルに夜、暗くなってから道場に来るように言い、暗闇で的を射抜いて見せるのです(その顛末については、ぜひヘリゲルの著書を参照ください)。

 意識という働きは、何かに集中することで力を発揮しますが、そのことにとらわれ、上手に対処しようと力んでしまうと、かえって動きが鈍くなったり、目の前のことに十分力を発揮できなくなったりしてしまうところがあります。だからと言って、意識が不要だというわけではありません。何かに取り組もうとするとき、意識的に考え、判断し、行動しないことには、はじめることすらできません。

 古典芸能や武術などでは、まずは型を覚えるということが求められます。当然、最初のうちはあれこれ意識的に考えながらやろうとするので、変なところに力が入ってぎこちなく、なかなかスムースに動くことができません。たとえて言うなら、自転車や車の運転のようなものです。はじめはどこをどう動かせばいいのか、頭の中で一生懸命考え、ハンドルにしがみつくようにして動かそうとしますが、やがて自分の動きと乗り物の動きがスムースにリンクしてくると、あまり意識することなく運転することができるようになります。

 型から入り、型を忘れるということが言われますが、意識的な努力の積み重ねによって、狙わずに狙う、意識せずに意識するという一見矛盾した状態がありうるのでしょう。スポーツや創作などいろいろな活動に通底することだと思いますし、ふだんの生活の中でも案外大事な心得なんじゃないかと思います。

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