世界にわたしの反応を置いておく
生きていると日々いろんなことを選ばなくちゃいけなくて、選んだものが失敗だったんじゃないかと後悔したり、そもそも選ぶこと自体が苦痛に感じたりする。
だけど、本当は自分で選べることなんてあまり無いんじゃないかなと思った。
この身体は、外見も中身も何一つ自分で選んだものじゃないし、心の動き、喜怒哀楽も反射的なもので、意識しなければ自分で選ぶことはできない。
学歴も職業も恋人も友人も、自分で選んだような気がするけど、出会える対象は自分が生まれた地域や環境に大きく左右されてあらかじめ制限されているし、出会えたとしても相手の同意が必要。
じゃあ、家具や服やペットは、相手の同意なく手に入れることができるけど、それでも出会えるかどうかはやっぱり自分で選べない。さらに、繰り返しになるけど、そもそもこの家具を欲しいと思うかどうか、その心の動きを自分で100%コントロールすることができない。
何かを選ぶとき(わたしが何かを選んだつもりでいるとき)、世間の価値基準に影響されているか、自分のこれまでの人生経験に影響されているか、どちらかだと思う。そして、この2つはどちらも自分で選んできたものじゃないと思う。世間の価値感をコントロールできる感覚はまったくないし、自分のこれまでの人生も「自分で選んでここまできた」というよりは、「与えられた世界にただ一生懸命存在していた」という感じがする。
だから、一つ一つの選択をおおごとに捉えて悩まなくていいよ、この選択はミスだったんじゃないかと焦らなくていいよ と言いたいです。選択肢が目の前に現れるとき、それを選ぶのは確かに今ここにいる自分の意思なんだけど、その意思はわたしたち自身というよりは、過去から脈々と作られてきた何かでできている。選ばれるものが選ばれるから、わたしたちはそれをただ見ていればいいとおもう。
何が起きるか選べない世界に、ただわたしの反応を置いておくつもりで。
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