初老の男の話

初老の男は、平坦な日々を過ごしていた。
何も変わらない日々。
昨日が今日、あるいは明日であるかのようだった。
もし日記をつけるとすれば、1年分を今日書いてしまえるだろう。
 
色のない世界。
目の病気を患っているわけではないが、
男にはそう感じられた。
          
           ♦︎

今日もいつものように、
いつもと変わらない朝がきた。
いつも通りに身支度をして、
いつもと同じ時間に、
いつもの靴を履き、
ドアノブをひねり外に出る。
いつものように。

そして、いつもと同じ『色のない世界』を歩く。

同じ道、
同じ坂、
同じ曲がり角。
いつもと同じ通り路を、
いつものように男は歩く。

ふいに男は、何か違和感があることに気づく。
少し動揺しながらあたりを見回す。
違和感の所在は、すぐに見つけることができた。

なぜならそこには、色があったからだ。

そこに近づいてみる。
それはとても小さな一輪の花だった。

小さな花は、とても色鮮やかだった。
名伏し難い色。
色自体というよりも色質が印象的で、
暖かくて、優しい、本当に美しい花だった。

君には色があるんだね。

男は珍しそうに、そうつぶやいた。
喧騒で声がかき消されることはわかっていたが、                                                そうせずにはいられなかった。

それ以来、男はここを通るたびに、
小さな花との短い時間を過ごした。

小さな花は、遠く忘れた感情を思い出させてくれるようだった。

小さな花といると、本当に楽しかった。

小さな花といる時だけは、色を感じることができた。


そうして、数ヶ月ほど経った頃、
男は突然、ある衝動に駆られる。

ずっと一緒にいたい。

『色のない世界』の、唯一の希望と。

男はしゃがみ込み、ゆっくりと手を伸ばす。
ゆっくり、自分の誠意を示すかのようにゆっくりと。
ようやく小さな花に触れかけたその瞬間、
自分の手が、視界に入ってきたのに驚いて、男は手を止めた。

男の手は今までになく、汚れているように見えた。
自分のものではないような感覚だった。

男はしばらくその手から、目を離せなかったが、
何かを受け入れたかのように、そっとその手を小さな花から遠ざけた。

男は立ち上がり周りを見渡すと、景色がいつもと違うように見えた。

世界は色を取り戻していた。

           ♦︎ 

「あのー、お客さん大丈夫ですか?」

初老の男は、都内のある書店にいた。

表紙に『美しい花』と書かれている絵本をそっと閉じた。
男の肩は小刻みに震え、頬には1粒の涙が流れ落ちた。

まるで時間が止まったかのように、
男は微動だにしなかったが、しばらくして、
店員に軽く会釈をし、その店をあとにした。

軽快なスキップで。

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