ミュージカル『カム・フロム・アウェイ』と宗教観の話

だいぶ空いてしまったけど『カム・フロム・アウェイ』の話をします。
タイトルに宗教観と入れたのは、この間友だちと呑んでいて、日本という国の立地とそれにまつわるちょっとしたあれこれで盛り上がって、あー、あのミュージカル観たときに考えたことと繋がってるかもしれないなあと思ったからで、メインではないです。
酒の席でなんの話してんだ。酔っ払うと真面目な話をすることに定評がある。理屈っぽくてつまんない酔い方だな!ウザかったら言ってね友だち各位。


さて本題。
『カム・フロム・アウェイ』は9.11の実話を元にしたミュージカル。恥ずかしながら詳しくないのでどこまでが実話なのか分かってないんだけど……。
かつての飛行機、燃料効率の悪さや、大型の燃料タンクがなく、多くの経由地を経なければならなかった時代につくられて、いまでは必要がなくなったけれど、「いざという時の」退避地として残された空港の街の物語。使われなくなった空港の街なんて、そりゃあ寂れている。平穏でつまらない日常。それがある日一変する。
9.11、その日空にいた飛行機と乗客たち。たまたま便が違っただけの、あるいは、違っていなかったかもしれない(乗客の中にはテロリストの仲間が混ざっているかもしれない)彼らが、寂れた街に押し寄せてくる。そう、文字通り。
国籍もさまざま、人種もさまざま。言葉が通じる人もいれば、通じない人もいる。若い人もいれば、老いた人も、赤ん坊も、ペットも。
ただの主婦や、学校の先生、田舎の街に赴任したばかりの新人リポーター、ストライキ中のスクールバスの運転手、町長さん、そのほかの平凡な人々の、平凡な暮らしにはまるで関わりのないような人たちが、たくさん、たくさん。

彼らはそれを受け入れる。もちろん、これは脚色された物語なので、反発した人もいただろうけれど、『彼らを助けるのは当然のこと!』と、日常を放り出して、少しでも心安らかに過ごせるようにと尽力する。劇中でも、もう何日も眠れていない、と語られるが、それでも、『知らない土地に突然連れてこられて、何が起きたかも分からない、いつ家に帰れるかも分からない人たちのため』に、あくせく働くのだ。

日本ではこうはゆくまいな、と感じたわけです。
と、いうより、『隣人への無償の親切』って、キリスト教的な思想かなと。よく、日本人のおもてなしの精神の話をされるけれど、もちろんなんとなく慣習としてある感覚だとは思うんだけど、あくまで『外の人』に対する歓迎であって、根本には排他的な面が見え隠れしている。
『外から来た』『お客さん』を『もてなす』のと、「望まない不幸/不利益を被った人に手を差し伸べる」のは違う。
ヨーロッパ等の階級社会において、貴族(領主)が平民(領民)に施す精神のことをノブレス・オブリージュと呼び、近ごろは貴族以外にもその言葉が浸透してきているように思うけれど、彼らが平民に『施す』のは、実際のところ無償であるかというとそうではなくて、貴族納税によって生活をしているので還元することを含めて統治で、しかも領主の一族って土地に長くある人たち。
(日本は江戸時代に参勤交代があったので、長く同じ土地を治めつづける領主、という存在が一部をのぞいてなくなっている。だからこの感覚がないよね、というのは暴論だとしても)

この物語でやってきた人たちはいわゆる『避難民』であり、来たくて来たわけではないし、何故ここに連れてこられたのか、何故家に帰らせてもらえないのか分かっていない。弱者であるとは言い難いけど、不利益を被った人たち。望まぬ来訪者であるのはお互いに同じ。
でも、迷いなく動くことができる。少なくとも、動ける人たちで物語が進行してゆく。寄り添って話を聞いたり、世界中からやってきたあらゆる人種、言葉すら通じない人たち、ちがう信仰を持つ人だっている。
飛行機から降りてきたひとたちは、はじめは悲劇について知らない。けれど知ってしまったら、テロリストと同じ人種であったり、同じ信仰を持つ人に対してどうしても不信感を抱いてしまう。攻撃的になる人もいる。だけど、街の人は、彼らよりも早く事実を知っていた。知っていて、分け隔てなく便宜をはかるのだ。もちろんそうではない人もいるけどね。
書くとそれだけのように感じるけど、驚くべきことだと思う。本当は納得していないのに理性で親切に振る舞っているかというとそうではなくて、他人に親切にすることが教育(信仰を含む)のなかに入っている人たちなんだな。
日本人は親切だとよく言われるけれど、かなり個人の性質に由来したものだ。依存しているともいう。事なかれ主義だったり、波風立てないのが美徳だとされる『風潮』。道徳は教育によって作られたものではない。
もちろん、教育がかならずしも正しいわけではなくて、歴史の中ではキリスト教国が異教徒を相手に戦争をしている場面もたくさんある。違うものは攻撃してもよいとか、報復をしてもよいはずはないし、舞台の外にも、前にも、あとにも、いろんなことが起きているわけだけど。
「そこまでしなくていいじゃないか」という人がいる。でも、「これは私の使命!」と信じて突き進む人もいる。彼らは夫婦だ。同じ町に、同じ家に暮らす人たちにだって意見の相違がある。ましてや他人なら、なおさら。
親切な他人になることは存外むつかしいことなのだ。


そして声を大にして言わせてくれ。
ありがとうホリプロ。

ホリプロが推したいキャストをごりごりに突っ込んできていても(濱田めぐみさんや浦井健治くんのことですね)、もうどんどんやってくれ。なんてったって、彼らは上手い。それだけで安心できる。どのシーンも、どの歌も、クオリティがめちゃくちゃ高い。ありがとうホリプロ。
欲を言うなら権利を買ったならメリポピも定期的にやってくれ!ハリポタみたいに常設にしろとは言わないから。

『カム・フロム・アウェイ』にはいわゆるアンサンブルキャストが存在しない。セットを毎回組み替えるにも限度があり、衣装をかえメイクをかえ群衆の役などをこなす彼らは、場面に深みを与え、限られた舞台のうえを変幻自在に別の場所に見せてくれる。が、いない。
どうなっているのかというと、キャストがシーンごとに、ジャケットを脱ぎ、あるいは髪を結い、ときには立ち振る舞いまでもまるきりかえて、別人に“成る”のだ。早変えすら必要とせずに。そうして、彼らが演じる複数の役は、シーンによって目まぐるしく、くるくるとかわっていく。一度きりのキャラクタもいれば、そうではないキャラクタもいる。
レ・ミゼラブルもそうなんだけど、ほとんどのキャストが舞台に出ずっぱりになる。(レミゼはアンサンブルもいるが)ものすごいエネルギーだ。
飛行機の中、バスの中、並べられた椅子のうえで、彼らの演技の力だけで場面が描かれる。観客のわたしたちの、「そういうもの」という認識があるから成り立つものではあるけれど、舞台演劇でやってほしいこと、これなんだよなあ!もちろん派手でお金のかかったセットが次々転換されていくのも観ていてアツいのだが、それはそれ。

観劇って体験だと思う。そこにいる観客の想像力をも借りて世界をつくる。だから、みえにくい席だった、とか、近くの席の人のマナーが良くなくて悲しかった、とかも意外と覚えているものだ。いっしょに観た人とどんな感想を語れたか、も。
たしかにあの日、わたしたちは何も知らないまま降下させられた乗客だったし、一夜にして塗り替えられた世界の住人だった。すべてに共感する必要はない。ただ楽しかったー!で終わってもいい(なにかを難しく考えなくてもいい)。
理由はそれぞれにしろ、その演目を選んでチケットを取り、劇場へ足を運んだことを覚えていたいな、と思っている。あの日は一日しかなかったが、人生は続くので。

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