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届け、ことだま

こんにちは。同団体の活動終了に伴い、各メンバーがそれぞれの思いを綴っています。最終回となる第4回は、私、S.M.が担当いたします。私は、大学ではロシア語を専攻しながらも、ミャンマーにボランティアをしに行ったことをきっかけに、彼の国に関心を持つようになり、クーデター勃発後、団体を立ち上げました。その1年後、ウクライナ侵攻が起こります。これらを踏まえながら、以下、読み進めていただけますと幸いです。


締切間近の期末レポートがなかなか書けない。書いては消してを繰り返すこの現状に集中力が切れ、あくびが止まらなくなった。休憩でもしちゃえ。ダラダラとスマホに手を伸ばす。Twitterでも見るか。そう思った矢先、速報が飛び込んできた。クーデター?嘘だ、そんなことはない。一心不乱にニュースを漁る。詳細は不明。頭が真っ白になった。Help Me. 昨夜までメッセージのやり取りをしていたミャンマーの友人からだ。クーデターが起きた。返す言葉を探している間に、悲痛の叫びが絶え間なく送られてくる。彼だけではない。他の知人からも同様のメッセージは届く。彼らは絶え間なくFacebookとInstagramで、軍への抗議と民主主義を叫び続け始めた。

2021年2月1日 11:35

彼らとの出会いは、2年前の夏のこと。ミャンマーでボランティアをしている団体からメッセージが届いた。ベールに包まれた、アジア最後のフロンティアを自分の目で見ることができる。ただそれだけを理由に、参加した。ヤンゴンでは、現地の青年と、ミャンマーの未来と課題について議論した際、彼らは、数年前にようやく訪れた民主主義の春に胸を踊らせ、明るい未来を熱く語っていた。ボランティア最終日には、半日一緒に遊んだが、その時の記憶は、あまりない。訪問先や宿泊先の衛生面と油っこい食事に耐えられず、成田空港着陸まであと何日何時間ということばかりを考えていたからだ。帰国するや否や、高熱にうなされた。二度とミャンマーに行くもんか。

ヤンゴン郊外 (2019年9月)

縁を切るつもりだった。でも、出来なかった。彼らが優しかったんだ。特に日本語を勉強している何人かは、日本の話を振ってくれたり、時には、私や母を気遣ってくれたりした。ふと、ヤンゴンのひとときが思い出される。すれ違う街の人たちが、よく、はにかみ笑顔を見せてくれた。日曜定休のレストランが、私たちのために朝営業をしてくれた。美味しく朝ごはんをいただいていると、日本の歌が聞こえてきた。わざわざ用意してくれたものだった。そしてある時、気付いたんだ。シャイで優しいミャンマーの人たちとの繋がりに、自分が支えられていることに。

ミャンマーの友人が描いてくれた、
シェンダゴン・パゴダの前でピースサインをする私。

手元のスマホでは、回想に耽っている間も、ニュースが更新されていた。クーデターの詳細が徐々に明らかになり始めた。確かに、彼らは9月某日、明るい未来を生き生きと語っていた。それから3ヶ月後、武漢でコロナウイルスが確認されると世界はパンデミック時代に突入した。ミャンマーも例外ではなく、多くの命を失い、経済は低迷した。そんな中、クーデターが起きた。頭の中が徐々に整理されるにつれ、この事実が与える絶望に飲まれていった。

自分に何かできることはないか。これまでの恩を少しでも返したい。彼らの悲痛な叫びをSNSのプライベートアカウントでシェアとアーカイブを始めた。が、数日もすると限界が来る。わたし一人では足りない。想いに共感してくれる友人と団体として、ミャンマーのいまを伝えることにした。とはいえ、ミャンマーへの関心そのものが低い。まずは興味を持ってもらおう。それに、軍事政権・クーデターと否定的なイメージが先行するが、ミャンマーには優しい人がいて、ユニークな文化があって、豊かなんだと。素敵な面も知ってほしい。そんな思いから、クーデターと文化についての投稿を始めた。

活動当初から大切にしている想いがもう1つある。しかしそれは、活動から1年が過ぎた頃、悲しい形で、より強固なものとなった。

そう、あの日のモスクワは、水彩画のように美しかった。澄み切った青空に雪を被った木々の白はよく映える。窓から差し込む朝陽はキラキラしていて、春の訪れを密かにお祝いしているようだった。ロシア、ウクライナへ侵攻。スマホを持つ手はブルブルし、過呼吸になっていく。頭は大きなハンマーで殴られたかのようにクラクラしてきた。ロシアメディアのライブニュースを見る。侵攻直後の様子や攻撃されたキーウが映る。イヤホンを耳から外し、静かにラインを開く。「大丈夫?危険はない?」私、戦争をしている国にいるんだ。街に出ると、電柱や壁には、反戦のメッセージが。デモに参加する人もいれば、プラカードを掲げて静かに訴える人もいた。よく見ると、書かれたメッセージの下には、消された文字が、抗議する人の近くでは警察車両がいてサイレン音が鳴っている。中には、30人ほどの治安部隊に連行された女性もいた。

2022年2月28日 モスクワ

帰国後もしばらくは、何も考えられなかった。そんな中、連絡をくれた人の中に、ミャンマーの友人がいた。朝起きると独裁政権になり、政府に意を唱えると捕まったり暴力を振るわれたりする、自由のない社会に置かれているのは、ミャンマーもロシアも変わらない。彼らの方が辛いはずなのに、私を思うあたたかい言葉をたくさんかけてくれた。自分自身が当事者になったと同時に、全く別のところでそれ以上に辛いであろう当事者がいるこの状況を受け入れていくなかで、ミャンマーのことだけでなく、意見を自由に述べることができない社会がたくさんあることも伝えたいという思いが、一段と強くなっていた。

おそろしい。クーデターから3年、ウクライナ侵攻から2年が経った。それだけではない。イスラエルによるガザへの攻撃も続いている。ホロコーストの再来やパレスチナ人を殺すゲームだと言われるほど残虐で許されまじきものが。その現実に私たちは疲れ、慣れ、距離をとる。ニュースに触れたとしても、またか、と思ってしまう時がある。それでも、悲劇の「始まり」を思い出せば、やりきれぬ悔しさや怒りが湧き立ち、居ても立っても居られなくなる。なんて身勝手で偉そうなんだ。自己満とても言えばいい。でも、昔から、なぜかほっとけないんだ…。

4月からは、伝えたり記録したりする職に就く。ミャンマーの報道に関わる機会がどこまであるのかは、未知数だ。ただ、ある日突然、運命が狂わされ、不条理な生活を強いられている人は、ミャンマーだけでなく、どこにだっている。絶望の縁をなんとか立って暗闇の中を生きている人もいれば、前を向いて生きている人もいる。

2021年9月 ヤンゴンの夕暮れ

すべてのニュースに一喜一憂して考えすぎてしまうと、あなた自身の大切ないまが苦しくなってしまうだろう。何か1つでもいい。おかしいっていう感性や問題を頭の片隅に置きながら、あなた自身が今日も1日頑張ってくれたら。ミャンマーとの出会いやこの活動での経験を胸に秘めながら、誰かの背中をちょっとだけ押せたり、かき消されそうな声をちょっとだけ長生きさせたり。

そんな記者を目指すことを宣言して、長い長い独り言を終わろうと思う。

Обязанность журналиста - писать то, что журналист видит на самом деле.

ジャーナリストの仕事(義務)は、実際に見たことを書くことである。

Анна Политковская, интервью с Радио 4 ВВС

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