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#201 叔父さんが亡くなった

2022.11.13.
金曜日に小学生からパワーをもらい、土曜日は叔父さんの葬儀…なんと落差のある週末だろうか。

親戚が亡くなったと言うと、周りの人は「それはご愁傷様です…。辛いことでしょう。」と神妙な顔で声をかけてくれるのだが、叔父さんとは最近はほとんど会っていなかったし、小さい頃に遊んでもらったような記憶もあまりない。

今日は叔父さんの話を書こうと思う。
特に起承転結もないし、オチもまとめもないはずなので、個人的で退屈な記事になることはご容赦いただきたい。





叔父さんは父の6歳下(それも初めて知った)の弟で、うちの実家はうちの家族とおばあちゃんが同じ家に住んでいたので、叔父さんも家族連れで時々遊びに来ていた。叔父さん、叔母さん、私より少し歳下のいとこ2人だ。

うちは3人兄弟なので、計5人でどったんばったん遊び、母の作った夕食をみんなで食べた。今思えば長男の嫁である母、大変だったろう。
子供たち同士で遊ぶので、特に叔父さんに遊んでもらった記憶はない。だが、みんなで食卓を囲んでいる時、叔父さんはいっつもにこにこしていて、父に下らないことでダメ出しされても「ああ〜そうかな〜」なんて言いながら笑っていた。


いつだったか、叔父さんが離婚したことを聞いた。

そういえばしばらくいとこたちとも会えていないことに気付いた。しばらくどころか、これから全く会わないかもしれないのだ。大人の都合でいとこってこんなに簡単に会えなくなるんだなと思った。



その後、叔父さんは再婚した。いつ離婚していつ再婚したか、自分が何歳くらいの時だったかも思い出せないほど時間感覚がない。いつの間にか再婚していた。

少しして、新しいいとこが生まれた。男の子だった。
今計算してみると、私の15歳くらい下だろうか。なので、新しいいとことは一緒に遊ぶことはほとんどなかった。そのいとこが少し大きくなると、お姉さん力を発揮して色々と話しかけてみたが、まず「くん」をつけるべきか呼び捨てにするべきか、敬語を使うか否か、なんだか距離感が難しかった。その子もシャイで、話しかけてもそこから広がったり盛り上がったりということはあまりなかった。

その辺りから、自分は部活だの受験だの一人暮らしだので、叔父さん一家と関わる機会も少なくなった。

毎年年始にはうちの家に挨拶に来ていたが、叔父さんたちが来るよと聞くと、お茶を飲みながら会話にドキドキするのが嫌で(特にみんながいる場だとそれに乗じて父が私に話しかけてくるのが嫌で…)、友達との約束があるからなどと言って、叔父さんたちが帰った頃に家に戻った。



私が社会人になると、私も大人になったからか、気まずさなど感じることなく、タイミングが合えば一緒にお茶をした。

叔父さんはどうやら、どこかの大学で教授をしているらしかった。叔母さんもどうやら別の大学で授業をしているようだった。

私が小学校の先生になったと話すと、「仕事は忙しいだろう」「今の小学校は大変だろう」と、叔父さんも叔母さんも心配してくれた。そこでようやく二人が大学で教えていることを知った…ように思う。今の小学校の様子や仕事について、話を聞いてくれた。
まあそんな真剣な話はごくわずかで、残りはくだらない話をして、叔父さんはまたにこにこ笑っていた。



しばらくして、叔父さんがガンであることを聞いた。

葬儀のときの父の話によると、発覚したのは2011年だったそうだ。その時点ですでにステージⅣだったらしい。

しばらくは私たち姪や甥には知らされなかった。私が仕事のことに精一杯で忘れていただけかもしれない。叔父さんたちが来る機会も減った。これも私が忙しくて気付かなかっただけかもしれないが。


あと半年くらいかもしれない。

今度放射線治療をするらしい。

ちょっと危ない状態らしい。

回復して、大学の授業もオンラインでやっているらしい。

家で大量に吐血したらしい。

叔母さんからの話を母づたいで聞き、何度も「もうダメなのかも」と覚悟していたが、結局叔父さんは、ステージⅣのガンが見つかってから10年以上も闘病し生き続けたことになる。




父は、何度か叔父さんの様子を見に行っていた。帰ってくると大抵「意外に元気そうだったな。まだ授業するとか言ってるらしい。」というようなことを言っていた。

亡くなる前日、「もう危ないらしい」と連絡を受け、また父は叔父さんのところへ向かった。私はもう何年も叔父さんに会っていないし、病状は良くなったり悪くなったり、でももう何年も前から危ないことは確かで、このごろはどんな連絡があっても自分からは遠くにいる人の話のように思えていた。そうして、仕事を終えて家に帰って母に「叔父さんどうなの。」と聞くと「亡くなったよ。」と言われた。「そう。」とだけ答えた。涙は出なかった。



葬儀の日は、親族ということで、弟と一緒に会計担当をすることになった。場所も遠かったので、赤ちゃんを産んだばかりの姉は一緒には行かなかった。

開式時刻に遅れて来る人もちらほらいて、なかなか受付は閉められず(というか斎場の担当者の人が閉めましょうと言ってくれない)、会計担当の仕事もすぐには終わらなかった。中で、思い出のスライドショーが流れる音が聞こえてくる。弔辞が聞こえてくる。

なんで親族なのにスライドショーが見られないんだ。なんで香典を確認する場所がこんな周りから丸見えのところなんだ。なんで受付閉めることをアナウンスしてくれないんだ、自分たちで判断しきゃいけないじゃないか。
冠婚葬祭業に携わっていた身としてそのオペレーションの悪さにイライラしてきた。

知人、仕事関係などの親族以外の席は満席になり、後ろに立ち見の人が数名いた。中からすすり泣く声が微かに聞こえてくる。


献花のタイミングでようやく中に入れてもらえた。出棺前にみんなで叔父さんの周りを花で埋めていったが、赤ちゃん連れの女性が、ずっと叔父さんの顔を触っていた。

会えなくなったいとこのうちの1人だった。
もう1人は心の病気でもう亡くなっていたことは母から少し前に聞かされていた。
ほとんど30年ぶりに、私たちは話をした。




無事に葬儀が終わり、家に帰って、母がもう何も作りたくないということで、出前をとって家族で食べた。

お風呂上がりにリビングでくつろいでいると、母のスマホに叔母さんからLINEがきた。「遺骨と遺影をこんな感じで飾ってみました。」と、写真がついていた。

私「この遺影、すっごくいい笑顔だよね。叔父さんって、いっつもにこにこ笑ってた気がするよ。」

母「確かにいつもにこにこしてたわね。そういう性格だったのかしら。」

私「次男だから…とか?」

母「どうだろうね…。前にね、叔母さんが言ってたんだけど。まだ叔父さんが元気だった頃、用があって叔母さんが叔父さんの研究室に夕方行ったんだって。そしたらね、学生とか職員とか教授とかが、ひっきりなしに叔父さんの研究室に来たらしいの。『先生、まだいらっしゃいますか?』『先生、もう帰られますか?あ、奥さんがいらしてたんですか!』『先生、一緒に帰りませんか?』って。そんな研究室、あんまりないわよね。叔母さんがそれ見て驚いたって話してたわよ。」

私「何それ。めちゃくちゃ愛されキャラじゃん。」




叔父さんのにこにこした顔は、親戚である私たちだけでなく、周りの人みんなに向けられていたんだろう。
きっと、人間力の高い人だったんだろうな。
みんなに慕われる先生だったんだろうな。
もっとたくさん話をすればよかったな。

この記事を書いて、ようやく今、叔父さんを思って泣いている。


思い浮かぶ顔が笑顔ばかりの人に、私もなっていきたいと思った。



おしまい。




#教員エッセイじゃない
#叔父さんの話
#笑顔で生きること

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