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母親辞任

狼は多くの動物にとって脅威となります。しかし同時に、多くの生命を救っているということはあまり知られていません。

「1995年14匹の狼が放たれた。23年後人々は目を見張った。」

~『狼』と書いて『良いケモノ』~

鹿から見れば天敵ですが、全体で見ると『良いケモノ』

いわゆるDSと呼ばれる悪魔がオオカミで、鹿が人間みたいです。

病気とかウイルス、コロナを叩くという発想もこれですね。

オオカミを退治するという発想。

家族を食い殺された鹿から見れば、確かに憎きオオカミですが...

結局、どの視点から見るかで悪魔なのか正義の味方なのかというところです。

「コロナ終息のフィナーレは...」

このことは理解していた。

でも、やっぱり大事な人は淘汰される側にいてほしくない。だから、この話には見て見ぬふりをしてきた。そして淘汰される側にいる人への説得を試みた。でも、嘲笑されるだけで惨敗だ。

最初に説得したのは、アメブロをやっていたときの読者。もう、6年か7年前。あのときの息子ちゃんは、小学生になっているのかな。それから、知り合い、親戚、友人、実家の親兄弟、そしてこの茶番になって我が子だ。外堀から埋められて、とうとう本丸もやられた。

考えてみれば、アメブロの読者のときも1年くら思い悩み、本丸の我が子も1年くらいだ。ここに至るまで、関係の薄い人から順番に練習をさせられたようだ。毎回、身をよじるような苦しみがあったけれど、我が子以上に思い悩む人はもういない。

母親って、子どもが無邪気にオオカミに近づいているのを見かけたら、半狂乱になって止めようとする。それは「母親の本能」だ。知っている人は少ないようだけれど。

いや、「母親の本能」を知る前に、そもそも危険が危険だという認識がないのかもしれない。



「1995年14匹の狼が放たれた。23年後人々は目を見張った。」


オオカミが投入されて、鹿は逃げ回った。

人間はどうして捕食するオオカミのところにわざわざ行くのだろうか。

やはり、情報に対する感度だと思う。

我が子と話していて気づいたのは、テレビ・新聞を見るか見ないかだとか、どこから情報を取るかというのは表面的なことだということだ。「エビデンス」だとか「一次情報」だとか言うけれど、一日中テレビにお守りをしてもらっている実家の父と同じようなことを言っている。お金の流れを考えれば、同じ穴のムジナだって分かるのだけれど。そんなことを言おうものなら、「それは一次情報なのか?」とか、「感情的に言うな」だとか。そこで話が止まってしまい、先に進めない。

左脳的な言葉のやりとりを越えたところにある危険という情報。それを察知できるかということだ。私も現代人だし、本能が鈍っているだろうから、危険察知能力は低いとは思う。そんな私でも察知できることが、周囲にはほとんど伝わらない。理解できないらしい。

このことは、食べものに対する意識と共通していると思う。今回の騒動が茶番だと見抜いている人は、ふだんから食べ物に気を遣ったいる人が多い。

「食べ物は情報だ」と誰かが言っていたが、どんな取り込み方をするのかは、食べ物であれ、情報であれ、同じだということだ。

身体を維持する以上の欲望で、あるいはアヘンのような中毒で「食べる」。欲望と依存が邪魔をして、危険を感知できない。情報も同じだ。それがお花畑の住人だと言われる理由にもなるのだろう。

私が一日一食だと言うと、慢性疾患で病院にかかって薬を飲んでいる人が、私を変な人だと思い、病気にならないように気をつけて、と言う。私は薬も飲んでいないし、不調もないのだけど。慢性疾患の人は、この矛盾に気がつかない。



https://kamidanajapan.com/shinsen-juni/

一日一食は「神の食」
一日二食は「人間の食」
一日三食以上は「邪食」

一日一食が基本の私には、これがよく分かる。三食も食べていれば、一日が食べることで終わるし、物事が見えなくなる。「邪食」は言い得て妙だと思う。

一日二食は「人間の食」というのもなるほどと思う。お正月がそうだったけれど、人とのつきあいで食べるとき、私も二食になることが多い。

とは言え、一日一食のその一食で私はお酒を飲むこともあるし、好きなだけ食べている。私に関しては「神の食」というにはあまりにも厚かましい。

それでも、一日一食が基本になってから色々と変化があったのは事実だ。時間が増えただけではなく、直観が冴えたのと、いいように事が進むようになった私という人為(フェミの好きな主体性?)よりも、自然(自ずからなる)に任せるほうが断然上手くいくことも分かった。また、生意気にも、他人様を見ていて、物事の本質が見えていないと感じることも多くなった。それは食べることへの意識と連動している。


少なくとも

危険を情報として察知するかどうかは、食べ方や食べるものと連動している

有名人を別にすれば、このことをリアル界で共感できる人は今のところいない。

こんなおばさんが淘汰されないように逃げ回っているのはどうよ?と思うけれど、まだ生きてやるべきこと(お金儲けではない仕事)があるのだと理解している。

仕事がない、つまり要らない枝になったのであれば手入れされるはず。そして、投げ捨てられて、燃やされる。そういったことは起きていない。それどころか、次の仕事も示されている。

その仕事をちゃんと遂行するためにも、母親を辞任する。いや、母としての私が死んだ。「母親の本能」を封印して、期待されるところだけ心配するのは私には無理だ。だから、母としての私には死んでもらう。そう言うと、周囲から「そんな、極端なことを言う。ヘソを曲げなくてもいいじゃないか」となだめられるだろう。これで何回目になるのだろう?「母親の本能」を知らない人の指図は受けない。

春から新しい土地で、新しい仕事をすることになっている。

第三の人生だね。

ということで、noteが書き殴りではなくなった。自己紹介を変えようと思ったが、気の利いた文が思い浮かばない。

文章を書いて誰かに伝えたいというものでもなく、やっぱり「ひとり言」としか言いようがない。

強いて言うなら、頭の中の掃除かな。書いてアウトプットしたら、頭に余白がたくさんできて、直観も冴えるから。



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