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書くときの心情

ブログにしろ、Noteにしろ、何のために書くのか。営業に使っている人もいるし、商売ではなくても熱い思いを伝えたいから書いている人もいる。作品の発表の場という人もいる。

私は?

書きなぐっている。

自己紹介にも書いているが、頭の中を整理することが一番の目的。ブログであれ、Noteであれ、粘土板のようなもの。頭の中の粘土のかたまりを出してきて、粘土板の上でこねて、形を作る。それを見て、ああ、私はこういうことを考えているんだと納得する。

じゃあ、一人で日記でも書けばいいじゃない?という話になるが、たとえ、読んでくれる人が一人もいなくても、人目にさらして書くという緊張感が快感であることを知ってしまったから。読んでもらうには、わかりやすく、理路整然と書かなければいけない。それは、自分への説明にもなる。そうしたら、飲み込めなかった不条理も受け入れることができる。受け入れると言っても、不条理に屈服することではない。

そうやって頭が整理されると、思考が速くなるから、それがまた面白い。そうしたら、またネタをみつけてしまい、また書きたくなる。

好循環なのか、悪循環なのか、一種のゲーム

去年あたりまでは”中毒”だった。アカウントをコロコロ変えている一つの理由は、”中毒”から脱出しようとしてアカウントを消して、また、再開してしまうから。今も”中毒”だけれど、”作文の練習”と名称を変えることにした。


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今の時点での私の解釈で言うと、情報は時に
・恐怖から逃れるためのもの
だったりします。「恐れ」から発する言葉には、どんなものであれ、私はものすごく反応します。なぜなら、私自身も十分に恐れたことがあるからです。
面白いのは、言葉自体がどんなにポジティブでも、「恐れ」から発した言葉や文章にはしっかり「恐れ」が宿っているということ。そして、そういう言葉は、やっぱり「恐れ」しか召喚しないんですよね・・・。このことに気づいている情報発信者は、あまりいないような気がします。
それから、情報を発信するのは
・人より優位に立つため
だったりします。「優位に立つ」というのは別に避けられるようなことではなくて、ただその自分の影響力をどこまで響かせたいのか、というところだろうと思います。
それが「自分だけ」なのか「自分や家族だけ」なのか、ごく一部の人に向けたものなのか。時々、そういう範囲の狭さは、「勝ちたい」という表現になって現れるし、人を攻撃する表現になったりすることがあるなと感じます。なぜ勝たなくてはいけないのか? 勝つ必要はあるのか? 考えてしまいます。

「その文章が、どのような心の状態で書かれたのかを想像する」より

文章を読めば、書き手の心情が伝わってくるものだが、あまり意識していなかった。

最初の「恐怖から逃れるためのもの」は、私には全く無かった視点。ああ、そうやって書いている人もいるんだと思った。

この騒ぎが始まって、マイノリティの人が書いたものばかり読んでいるからだろう。みなさん、怒ったり、あきれていても、あまり怖がっていない。

私も、「来るなら来てみぃ!」と思っている。「じごくのそうべえ」のように、閻魔さん(グローバリスト)の意図を肩透かしして、「もう、おまえはええわ」と言わせることを目指している。

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そういう心境になったのも、日々書いてきたから。「恐怖」に鈍感だから、「恐怖」が根底にある記事には出くわさないかもしれない。私にとって、「恐怖」よりも「不条理」のほうが圧倒的な問題だからだと思う。


二番目の「人より優位に立つため」は、他人の文章を読んでいて、私もよく感じる。私が書く文もそうだと思うし、たとえ、勝ちたいという気持ちがなくても、読む人によっては、「こいつ、勝ちたがっている!」と取られることは想像している。なぜなら、私はマイノリティだから。

この茶番が始まる前からすでに、リアル界での会話がそうだった。私としては素朴な疑問や意見でも、「私をバカにしているのか!」って叱られたことが何度かあった。だから、リアル界では、意見は極力言わないことにしている。

それで、Noteは「書きなぐり」の落書帳になるというわけだ。うっぷん晴らしと言えばそうかもしれないけれど、数々の不条理を屈服せずに消化しようと思えば、どこかで整理しなければ、消化不良で死んでしまう。頭の中で完結できるのが一番いいのだけれど、わたしの頭には難しすぎる。


それはさておき、「恐怖から逃れるため」の文章と、「人より優位に立つため」の文章があったら、私は後者を読む。少なくとも、他人より優位に立とうと思えば、う~んと調べたり、考えたりするから、有意義な情報が詰まっている確率が高い。作者がそれで「エッヘン」とやっているかどうかは、どちらでもいい話だから。

「恐怖」は物事を見えなくするから、「恐怖」に取りつかれた人が書いたものは、あまり質のいい情報が書かれているとは、私には思えない。「恐怖」を研究するというなら別だけれど、もうさんざん見せつけられてうんざりしているから、99.9%やらないだろう。

と言って、「不条理」に悩んでいる人、言い換えれば、「苦しみ」に取り憑かれた人の文章を読みたいか?ということだ。カタルシスは狙えるかもしれないけれど、何せ私はマイノリティだから、他人様と”苦しみどころ”が違う気がする。


私もそろそろ、”不条理”を書きなぐることを卒業しなければいけないと思う。いろいろと見えてきたし、私はこれからどうすればいいのかも分かってきた。しばらくは、また、どこかでネタを拾ってしまって、書きなぐりをしてしまいそうだけれど。


とりあえず、本を読まなければいけない。この騒ぎが始まってから、ネットの情報ばかりで、あまり本を読んでいない。読まなくなって、読みたい本がガラッと変わってしまった。書店には申し訳ないけれど、新刊には魅力を感じるものがほとんどない。あれほど好きだった本屋さんが、間が持たない空間になってしまった。私自身が一番驚いている。

新刊ではなく古い本、速読ではなく遅読ができる本が読みたい。

「速い」だとか「新しい」はもうたくさんだ。追い求めて、これ以上踊らされるのはもういやだ。書いた人の思いをゆっくりと聴くような遅読に耐えられる本がいい。私も、質のいいものをゆっくりと書くことができたらいいなぁ。

毎日、書くのも善し悪しだね。でも、たぶん、しばらくは書いちゃうだろうけれど。


(タイトル画像:https://www.suzu-shiro.com/entry/2019/09/11/205333)

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