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人目にさらして書く

久しぶりにアメーバーブログを始めたら、何年か前と様子が違う。以前はテーマがあったが、今回は特にテーマもなく始めたから、アクセスしてくださる人が全然違う。何のテーマもないブログに来てくださる人って、当然だけれど、ブログで商売をしている人たち。子育て中の人も多いようだ。○○コーチとか、△△カウンセリングだとか、意地でも働かなければいけない(=お金を稼ぐ)ご時世で、大変だなと思う。

旧ブログでは、誰にでも分かるように、難しい言葉を使わないように、短く書くことを心がけていた。”詐欺に遭う人”が一人でも減ってほしいと思ったから。

私の言うウソというのは、「人々のためにあるのではなく、お金儲けのためにあるが、多くの人はそれを知らず、それらは良心的なものだと信じていること」ということだ。
詐欺に遭う人と、詐欺師とどちらが悪いか?と聞かれたら、詐欺師に決まっている。でも、多くの場合、詐欺師は逃げ切るだろうし、仮に、詐欺師を捕まえて、謝らせることができたとしても、失ったものは戻ってこないことが多い。お金ならまだいいが、人の命、健康であれば、最悪だ。(『詐欺師』より)

私が伝えたいと思う人たちは、我が子を含めた若い"イマドキの人だ。

フランチャイズの塾をやったり、日本語を教えたり、学校で教えたり、不本意ながら、「教える」ことが多かった。だから、専門家ではないけれど、分かりやすく伝えるのが私の役回りかなと思っていた。

もちろん、私の伝え方が悪いのだろうけれど、それ以上に"イマドキの人”と見ている世界だか、住んでいる世界があまりにも違うというのを感じるようになった。その差は、言語が違うくらい。だから、私が伝えるのは無理だと思うようになった。この騒ぎになって、それがより一層明らかになった。

いつの時代も、そういうものかもしれない。この歳になって、自分の親世代の感覚がようやく分かるようになったし、それに反発する若い自分も覚えている。だから、沈黙するしかない。できることがあるとすれば、背中で語ることくらい。

それなら、書きたいように書こうと思った。私が書いたものに何か感じるものがあって、参考になる人がいたら、儲けもの。たとえ商売の足しにされても本望だ。

去年はツイッターをやっていた。短歌や俳句じゃないけれど、140字の中に、いかに言いたいことを収めるかというゲームだ。それも面白かったけれど、やっぱり短いよね。書いたものに未練はないとは言うものの、"消費されている”のも強く感じるし。

”note”は、文字装飾も少なくて、長い文章を書いてもかまわない。(昨日の記事なんて、3800字だものね。誰も読まないわ!)旧ブログのように難しい言葉はNGというマイルールも撤廃した。"消費されている”感覚もそれほどなくて、今の私には心地のよい場所だ。

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かつての首相、大平正芳氏は、「あ~、う~」というのが口癖だった。でも、大平氏の口から出てくる言葉は、そのまま新聞記事にできるほど、整った文章だったという。頭のいい人なんだ。

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私は、賢くもないし、頭に思い浮かぶことをポンポン吐き出して、並べ替えて、推敲して文章を作る。だから、ワープロができたときは、涙が出るほど嬉しかった。だって、それまでは何度も書き直しをしていたから。よし清書だ!と思っても、写しているうちに、ついつい編集してしまい、またヘンテコになる・・・

貧乏性だからかもしれない。頭に浮かんだことを頭の中で却下するのがもったいなくて、とりあえず、外に出してみたいという欲望が強いようだ。外に出せば気が済むので、推敲中に却下することにためらいがないし、書いた文章にも未練がない。だから、本当に、排泄物・・・

ではあるのだけれど、今は、何が書きたいのか、本当にまとまらない。

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この騒動も敗北に終わり、さてさて、どうするかという分岐点に立っているようだ。


利他なのに、利他する先がなくなってしまった。

○ェミニストの先生には「主体性がない!!」と叱られそうだけれど、特にしたいことはない。お金もかけず、退屈しない(時間を有効に使える)だけのネタはいくつもあるのだけれど。

「受け身こそが究極の主体性」とも言われるけれど、そのうち、勝手に向こうからやってくるとは思っている。しばらくは、そこで待機していろ、と言われているような気がする。

人目に晒すことを前提に書いていると、思考の転回が早くなる。

それが何なのか、どうすればいいのか、書いているうち見えてくるよう思う。ということで、今日もまた、とりとめのない駄文を書いた。

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