見出し画像

あきらめる、あきらかにみる

専門学校の授業が遠隔になりました。一軒家の2階でエアコン無し。暑い時間帯は出かけることにして、エアコン無しで夏をやり過ごそうと思っていました。

反コロなのに、鍛えられます・・・

中村先生がこういう記事を書かれていました。

https://note.com/nakamuraclinic/n/nef24ce5c7eef

字幕大王さんが登壇したという講演会に行きましたよ~。ナマの字幕大王さんや浅村さんを見てみたいということで、はるばる・・・(笑)

それはさておき、私も、コロナへの関心は低空飛行です。生んだ子が受けちゃって、しかも一人はコテコテのコロナ脳。今もそうなのかな。生殖世代なのにね。私より先に逝くのだろうと思っています。何度大泣きしたかは分かりません。そういうバカに育てたのは私だと思うと、一番の大バカは私です。そう思うと、情けなくて、悲しくて、今でも泣けてきます。

でも、・・・

あきらめる


そう、あきらめたのです。だから、もう情報は欲しくないのです。コロナだけじゃなくて、あちらさんのやっていることに参加する人々を、我が子も含めて、何の感情もなく見ているという感じです。あまりにもワンパターン過ぎるからです。何度、こういう光景を見たことか。もちろん、こんな大規模ではないのですけれど、仕掛けられて、まんまと乗せられて、大事なものを奪われていく。それを言ったところで、絶対に聞く耳を持たない・・・。追いかけるだけ時間の無駄だと感じています。

この「諦める」は、
本来は仏教が語源で「 諦観(たいかん) 」と書きます。
諦観とは「あきらかにみる」ということ。ちなみに「諦観」の読み方は、
世間では「ていかん」と読みますが、仏教では「たいかん」と読みます。

https://true-buddhism.com/teachings/taikan/

「あきらめる」については、前にも書いたことがあるようにも思いますが、「あきらか」にして「みる」という意味です。コロナ騒動を引き起こしたあちらさんやそれに参加する人々の実態をこれ以上「あきらか」にして「みる」価値もないし、関心を持てばもつほどあちらさんの思うツボです。

コロナに参加している人々ってカルト集団の構成員だと思っています。カルト集団の実態はカルト以外の何ものでもなく、他に解明することある?と。私には関わりのないことです。

私の今の関心は聖書、神社、デトックス、氣あたりでしょうか。

「聖書」につていは、何度か書いてきましたが、ヨーロッパ経由の”キリスト教”は今も嫌いです。ヘブニーズのマレさんが「聖書」と”キリスト教”は別物だとおっしゃっていますが、私もそう思っています。15年前の不思議体験は、イエスだと思っています。クリスチャンでもないのにね。その矛盾を解いてくれたのがマレさんです。

「私に繋がっていなさい。要らない枝は農夫である父が手入れをなさる」

短い言葉です。落ち込んで死にかけていた私を励ましに来てくれたと思っていましたが、私がどう生きたらいいのかを示してくれていたということです。この茶番を通して、ようやくわかりました。

そうなると、「イエスは病人をどうやって癒やしたのだろう」って関心が湧くし、反コロなのにエアコンなしの灼熱地獄?の中で遠隔授業を受けるって、十字架刑にあったイエスのプチプチプチ・・・体験かも、なんて思ったりもします。イエスは不当であることが分かっていたのに、人々の愚かさの赦しを乞うために十字架にかかったのですから。

そういうことを考えたり想像するほうが、コロナや医療などのカルトに注目するよりも、私にとってはるかに有意義だということです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?