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マイノリティーのお仕事

母から電話がかかってきた。私が、実家から遠く離れた夫の実家に引っ越す話を現実的な話だと認識したようだ。「あっちに行かないで、こっちにいればいいじゃない?」と言うが、「今さらね~」と思った。別に意地悪な気持ちからそう思ったわけでもなく、何十年も前からの父と母の希望を積み重ねた結果、こうなりましたってことだから。


先日、久しぶりに実家に行った。高齢の両親を、近所に住む兄弟が見てくれている。父が言う、「○○(兄弟のこと)が(自分たちを)見てくれるから、(私には)夫の実家を見てほしい」と。夫にも兄弟がいて、皆奥さんがいるのだけどね。若いときの私なら、ショックだったと思う。父が会社勤めをしていたときに、男女雇用均等法ができた。女性も仕事で活躍するのが大事で、それを応援しているって自慢していたのに。”よい競走馬”と結婚したとたん、娘には嫁として姑に仕えろってねぇ・・・。私は、実家の親にとって正真正銘の「立身出世志向」のための駒なんだって。
しかし、実家という故郷を捨てている私には、何の感情もない。「うん、そのつもりだよ」と答えた。父はとても満足していた。たぶん、これが実家の親に対する最高の親孝行なのだろう。(「故郷」より)

「女は損!」と常々言っていた母が、私が結婚したとたん「私には分からない、お父さんの言うとおりにして」と涙ながらに言った。私にはものすごい不協和音だった。それから10年単位の時を経て、実家という故郷を捨てることで、ようやく平静に実家とつきあうことができるようになった。

また、今回の液体について。我が子に打たないでほしいと思うことが、「それはあなたの勝手な意見でしょ」というのが世間の風潮で、子どもたちもそれに同意している。だから、母親としての情愛を封印した。娘としての情愛より、母親としての情愛のほうが強いのは当然だし、幾度となく実家の母の”情愛”に振り回されてきた過去もある。だから、家族からの要望で応えられるものは応えるが、家族への情愛よりも、私にあてがわれた仕事を優先させることにした


私にあてがわれた仕事とは何か?

一つは、姑を最期のときまで自宅で過ごせるようにすること

正直、これまで高齢者問題には全く興味がなかった。他人事だった。むしろ、高齢者に向けるお金や人的資源を、子どもたちや若い人に向ければいいのにと思っていた。「自分が歳を取ったときのことを思って、ちゃんと考えなきゃいけない」と言われても、全然ピンと来なかった。

その私が、姑を自宅で看取ることを、私がするべき仕事だと思った理由は二つある。一つは、「施設」というものついて疑問を持っていること。もう一つは、世間の風潮に疑問を持っていること。周囲は”嫁”ということに関心が向くが、私にはどうでもいい話。


まず、「施設」について。

精神医療被害の問題から、児童相談所問題について知ることになった。昔ブログを書いていたときに、5人のお子さんを児童相談所につれて行かれた方と知り合った。なぜ、児童相談所?ということだが、精神医療が入り込んでいて、その方のお子さんも向精神薬でボロボロにされていた。体罰がダメだから、薬でコントロールするらしい。家族との面会も難しく、細かな規則があって、刑務所よりひどいと言う。

高齢者施設でも、向精神薬でおとなしくさせられるという話は聞いていた。公的機関ではなく、利用者や家族がお金を積むから、児童相談所よりは待遇がいいのかもしれないけれど。


 で、施設に入所されたんですが…施設でご本人にお話を伺うと、口を開くたびに
騙されてここに連れてこられたんです。花見に連れてってやると言うから息子の車に乗ったら、着いたのがこの施設。先生、お願いだから家に帰してください。お願いです。
と両手を合わせて拝み倒されます。足腰も達者なので、何度も脱走まがいの騒動を繰り返されていました。(「『目を覆いたくなる高齢者医療の現実』 vs 『医療・介護の多忙な現場の実情』 この果てしない葛藤から抜け出す唯一の方法とは。」より)

児童相談所や養護施設にいるお子さんたちも、騙されるように連れて行かれて、家に帰りたいのに帰れない。そして薬漬け。もちろん、家が大変な状況で、家にいるより児童相談所や養護施設にいるほうがいいという子もいるだろうけれど。

結局、児童相談所であれ、養護施設であれ、高齢者施設であれ、”施設”と名のつくところは、医療がガッツリと入り、監視される場所だということだ。(今、世界が目指している社会の縮図?)それが施設の本質だから、別の方法があるなら、そうしたい。

一昔前はどうだったのか?家族や地域が見ていたのだろう。いや、見る見られるではなく、ただ、毎日、そこに座っているだけであっても、高齢者も何かしら役割をもっていて、できないところは手伝ってもらうというような。

このあたりから、二つ目の「世間の風潮」についての話になるが、高齢者を”厄介者”と見るようになったのは、いつからなのだろう。厄介者認定されたのは、高齢者だけじゃない。子どももそうだ。それを女性に押しつけるな!というのがフェミニズムの主張。

”厄介者”認定の経緯は知らない。それはここでは置くとして、”厄介者”の面倒を見るより価値があるものって何だろう?って思う。

主体性が大事!とフェミニズムのセンセーはおっしゃるけれど、私自身は必要とされる仕事をすることが喜びで、それが一番価値があると思っている。私にとっては、お金儲けをしたり、お金を使って何かをすることは、ステータスでも主体性の発露でもない。その対象がたまたま姑であって、私が嫁だったというだけ。

入院するたびに、病院のごはんが不味いと言って、脱走してくる姑。当然、施設も病院も入りたくない。

離れて住む夫の兄弟たちが動けないなら、私が行けばいいではないか。そういうこと。

でもね、フェミニズムには感謝している。今時、本当に珍しいことらしく、姑だけじゃなくて、他からも感謝されるし、ものすごく賞賛される。別に大したことでもないのにね。

私はマイノリティだから、世間の風潮に従うのが大嫌いなのさ!特に、フェミニズムにはね~~



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