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"終わり"の、その隣。

お久しぶりの方も、初めましての方も、こんにちは。

ご無沙汰しております、みうです。

案外早くまた文字を綴っているなあ、なんて(ええ、思っています)。

その当時の気持ちは揺らいでいたはずなのに…いや、揺らいでいたからこそなのかもしれない。今も正直ゆらゆらしている。

次いつ書けるかも分からないし…Command+A+…いやいや。
画面の真ん中の、青くなったり白くなったりの繰り返しを、さして変わり映えのない机の上でひとり見つめている。



けれどやはり、私が"最後"に込めた想いを綺麗事にしたくなくて、いつかの私のようにひっそりと文字を紡ぎ、自分の世界を取り戻そうとしている。

正真正銘、そういう人間だ。
繕いかけの永遠に完成しない、得体も知れない何かに、ああでもないこうでもないとぶつぶつ言いながら向き合い続けている。


紡ぎ出した文字を媒介にして(人柄を一方的にしか知らない)誰かと繋がっていようがいまいが、私の生命には実際のところ全く関係がないらしい。
一時期は書くことや誰かに見てもらうことを中毒のように感じていたけれど、それが止んでも死にやしなかった。

一生懸命になる対象がパソコン一台で片付く毎日だろうが、新しく通じ合えた友達との関係だろうが、鬱陶しい誰かとの関係だろうが、矢継ぎ早のタイムリミットに塗れた計算演習だろうが、いつも私の一日の評価は「まあまあいい日」だった。
たまに意気揚々と終われる日もあったっけ。恵まれたことだ。

ただ、自分の言葉で自分の思いをかたちにするというその行為は欠落していたように思う。
抜け落ちてしまったその空間を、そしてそれに対して感じるはずの空虚感を、8月29日の次の日もその次の日も、感じないようにしていた。

夏の終わり、尾を切った私はどこかの洞穴に潜り込んで眠ってしまった。


今度はそのちょん切られて残された方の尾で語ろうと思い、こうして再び文字を書き始めた次第だ。

ちょん切られた方だからこそ語れるものもきっとあると思っている。


長いような短いような、白いような黒いようなこの数十日、1年前なら言葉にしたであろう出来事が、心の動きが、思い出が、たくさんある。


ゆくゆく増えてもいくであろうそれらを自分の言葉で誰かに語れずには、やはりいられないようだから。

"終わり"が来ても、何度でもまた"始まり"がやって来る。

どこで覚えたのだろう、そのうち"終わり"も"始まり"も混ざり合って馴染んでいってどうでも良くなるのもなんとなく知っている。


ちょん切った尾もまた私の生命だと教えてくれたすべての人に感謝して、ゆっくりと書いていこうと思う。


誰に読まれても、誰に読まれなくても。



今なら始められる。いや、始めたい。







これからも変わらず見守ってくださったら、とても嬉しく思います。







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