焦げ茶の渦
某日、真っ黒なスーツに身を包んで、動く歩道の上で立ち止まって遠くを眺めていた。
ウイルスだろうがなんだろうが関係なく、私は就職活動やその準備を着々と進めねばならない大学生の一人である。
それなりに実績を作ってきたようなそうでもないような、でも自分のことは知りすぎてしまったような、逆に全然知らないような、そんな大学生の一人でもある。
◇
何度か訪れたことのある目的地なので道に迷いはしなかったが、やはりリクルートスーツでしか訪れたことのない場所は何度訪れても背筋が伸びる。
角張って重いカバンを前に抱えながら、昼時のカフェの列に並ぶ。
この姿をしていると、私の視界に映るすべての大人が不自然なまでに立派に見えてしまう。
よく見ずにサンドイッチをトレイに乗せ、待たせまいとICカードをかざして早々に支払いをし、コーヒーがこぼれないギリギリの速さで空いている席に向かっていく。
2、3隣の席に座る人は電話をかけていた。忙しなく横文字を発しながら、電話の向こうの人に焦れている様子。
そんな声を右から左に受け流しながら、私はスティックシュガーの端をちぎる。そこでようやくコーヒーフレッシュの取り忘れに気がつくが、極力私の存在を空気にとかしてしまいたいので、席は立たなかった。
◇
焦げ茶色のコーヒーは、マドラーで無造作にかき混ぜると歪な渦を描く。
その渦を見ながら、そしてその人の声に時々聴覚を奪われながら、「働くって何だろう」と考え始めてしまった。
正直に言って、自分が1年半もすれば社会人になっている(であろう)ことの想像がつかない。
焦るべき時期ではないが、焦る時間なのだ。
ただ予定時刻を目前にしてどうにも心がズキリと疼いてしまってどうしようもないような、普段でも考えないことばかり頭に浮かんで自分でも嫌になるような、そんな焦りと不安に苛まれるのはいつだって同じである。
そういうわけで余計なことばかり考えていたら、味を大して覚えていないくせに「美味しい」という感想だけが残って、トレイの上は空っぽになった。
時計を一度じっと見つめて、思い立ったように手帳に必死で書き込む。
・自己PR
……
・キャリア形成
……
必死に走らせた筆跡を捉える視界の隅、白に茶の輪が残るコーヒーカップにふと気がつくだけで、私の頭の中で焦げ茶の歪な曲線の動きが再生される。
働くとは、一体、何なのだろう。
まだあの人の声がする。
耳にまだスマートフォンが当てられてはいるが、どうにか漕ぎ着けたらしく、合間合間にコーヒーをすすっている。
さぞ冷たかろう、さぞ酸っぱかろうと思いながら、私は手帳を閉じた。