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余所行きのパラドックス

余所行き(よそいき)と聞くと、なんだか改まっているイメージや豪華なイメージが頭に浮かぶ。

本来ニュートラルな言葉なのだろうけれど、どこかネガティブな意味で使われていることも多いように感じる。
ちょっと身なりを整えたら「余所行き?」と冗談交じりに言われたことはないだろうか。
まあ冗談ならいいのだが、あまりいい気はしない。

このように、良くも悪くも余所行きというのは「人に見せるために着飾った様子」を表している。

何も服飾の話をしたいわけではなくて。

私の言葉(noteでの投稿)は余所行きなのだろうか、とふと思ったのだ。

思い返してみれば確かに余所行きかもしれない。
世間話という名の飾りというか、生活感というか、そういうものはすっかりなくなってしまった。
(今のスタイルの方がいいと思っている)

そうでなくても、まとまらないものは人に見せられない気がして何度も書き直すし、書き直した挙句ボツにすることもしばしばある。

書き直すときはnoteの下書き機能を使うのではなく、パソコンのメモ帳を使っている。
なぜかといえば、同じことを書くのに何度も挑戦するから、そのすべてをとっておきたいからだ。(メモ帳は字が小さいのでひと目で全ての書き出しを見られる)

今確認すると書きかけの項目は6つあった。そのそれぞれに、数百文字の文章がいくつか細切れになって残っている。

そこに残されたままの言葉には周りくどさがあって。
それってひょっとしたら「余所行き」という意識が関係しているのではないか、と思ったのだ。

さて、書きかけのままの書き殴りと表に出た文章とでは、どちらが余所行きの文章なのだろうか、という問いがふと頭に浮かんだ。


というのも、私は飾らないで書くというのを意識していたはずだったからだ。

メモ帳に残っている言葉は余所行きっぽいから、飾っているから、周りくどいから、あるいはあまりにも空転しすぎているからそこにある。…はずだ。

それで、余所行きっぽくない素直な文章ばかりを表に出してきたつもりだったけれど。
でもそれって結果として、考えたままの周りくどい方(=メモ帳に残っている言葉たち)がよっぽどありのままなのであって、余所行きとは無縁なのではないか?という逆説にぶち当たっている。

(頭こんがらがりタイム……)

余所行きっぽさの排除がかえって余所行きっぽさに帰結してしまったような、本末転倒のような何かに囚われている。気がする。

まずい、脳の弱さがバレる。いや、バレてるか。

自身への問い「私の言葉は余所行きなのだろうか?」に対する答えは未だにうやむやなままなのだけれど。

こんな矛盾が生じてしまったのは何かを履き違えているからだろうか?
素直に書いたもの=余所行き、というある意味での矛盾を最初に私自身が掲げてしまったからだろうか?
(それとも単純に私が何かを間違えているだけか…)


今日ここまで言語にすることで頭を整理してみた一つの答えとしては、「余所行きではない」だ。

周りくどいのと飾られているのとは違うのだろう。
メモ帳に残されている言葉たちはただ余所行きの言葉だからという理由だけで残されているというよりも、ただ単純に文章が矛盾だらけで読みにくいから残っているだけで、飾られているから気に食わなくて残っているわけではない、と。

…そう書いた時点でこの文章も矛盾だらけで読みにくい。自覚はある。


他にも考えたことはたくさんあるが、これ以上の矛盾を綴るのはやめておこう。
誰かに伝えて初めて生きる言葉があるのなら、自分の中にとどめるので十分な言葉だってあるはずだ。