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25曲目: Sergio Mendes & Brasil '66「Mas Que Nada」

曲名: Mas Que Nada
アーティスト: Sergio Mendes & Brasil '66
作詞・作曲: Jorge Ben
初出盤の発売年: 1966年
収録CD:『マシュ・ケ・ナダ』[UICY-3701]
収録CDでの邦題:「マシュ・ケ・ナダ」

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セルジオは、ポルトガル語表記だとSérgio(「e」の上にアキュートアクセントと呼ばれる点が付く)となるようですが、英語圏のアルバムや本文で述べるテレビショーなどでもSergioとなっているので、本記事でもアキュートアクセントなしの表記にしました。

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筆者は素材集めや調べることに関しては好きな方だと思っているが、その反面どうもまとめたり仕上げたりする作業が得意でなく、ここに掲載予定の記事の多くもあれこれと理由をつけては中断してほったらかされた状態になっている。
まがりなりにも完成していれば、後日「ブートレッグ・シリーズ」みたいなお蔵出しを検討してみる(?)のもいいのかもしれないが、工事中の断片ばかり公開することに意味を見出せず、そのまま腐らせるパターンに陥る。
書き物は趣味だからともかくとして、少なくとも衣類・食物類についてはロスのないよう必要最小限の消費を心がけていきたい。

セルジオ・メンデスと1970年の来日の話について、かなり早い段階で書き始めていたのだが、調査途中でこの年の来日アーティスト(特にクラシック関連)の顔ぶれの凄さに愕然として、ネット検索で引っ掛かった記事を次々と読みふけることになってしまった。(余談だが、大阪万博関連の公演によって有働誠次郎と日比野宏明および彼らの会社の運命が変わったのは間違いないと思う。)

そうこうしているうち、有働誠次郎は2023年10月15日に、セルジオ・メンデスも2024年9月6日に亡くなってしまった。
1970年万博についての記事は、いつかまたの機会にしたいと考えているが、1970年の来日アーティスト(ジャンル問わず)について、あるいは来日公演の模様がテレビやラジオで放送されたものがどれだけあったのか、などが本またはネット上にまとめられたら、是非読んでみたいと思う。
筆者が調べた限りでは、情報が散逸していたり、誤記がそのままになっている状態の資料が結構あるように感じる。Wikipediaも例外ではない。

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ネットでセルメンの追悼記事をあれこれ見ていると、ミュージック・ライフ誌のページにたどり着いた。

https://www.musiclifeclub.com/news/20240909_11.html

記事中に、1967年頃にテレビで披露された「マシュ・ケ・ナダ」のパフォーマンス(演奏、歌ともアテフリ)が貼られているのだが、冒頭で彼らを紹介する女性が日本でもおなじみアーサ・キットだったことにまずビックリ(「証城寺の狸囃子」を日英語チャンポンで歌った人)。
気になったので、さらにリンク元のYouTubeをたどると。。。こうして時間はあっという間に過ぎてゆく。

画質があまりよろしくないが、ピアノ弾きがセルメンで、向かって左側の女性ヴォーカルがおそらくラニ・ホール、右側がおそらくジャニス・ハンセンと思われる。
「おそらく」と書いたのは、芽瑠璃堂のサイトにあるジャニス・ハンセンの訃報のページにある写真を見たり、アルバム『マシュ・ケ・ナダ』のジャケットに写っている女性二人の写真を見たりしているうちに、顔を判別する自信がすっかり失くなってしまったから。なので、特定についてはスルーさせていただく。

このパフォーマンスにおいて、上記の三人をくう怪演を見せるのが、パーカッション担当のホセ・ソアレスである。

筆者はブラジル流のパーカッションの鳴らし方に関する知識が欠如していることを先にお断りしておきたいが、イントロとコーラス部分ではタンボリンを少し裏返すように手首をひねりながら叩いている。このワザ(名称は知らない)、棒を使ってタンボリンを払うように叩くのはよく見るのだが、この人は手で叩く。
ヴァースになるところで、おもむろに後ろのテーブルからガンザを取り出すと、女性陣にニコニコしつつ、たえずカメラ映えを意識したステップを踏みながらシャカシャカと振る。そして、コーラスに戻る手前で唐突に身体を反らしながらガンザを喉元に当てるポーズ。下にその瞬間のキャプチャーを載せる。

筆者は思わず爆笑してしまったが、これは何なのだろう?
ガンザの奏法の一種ではないと信じたいが、生演奏でもこれをやって客席の笑いをとっていたのだろうか?

実はもう一度これをやるタイミングがあり、当然ホセは試みるのだが、それを知ってか知らずか、決めの直前でカメラは出番少なめの演奏者三人に切り替わってしまう。残念でした!

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グループ名の「ブラジル '66」は時折年号を変えていたことがあるようだ。(ただし、前年リリースの『ブラジル '65』については、マルコス・ヴァーリの『サンバ '68』のような単なるアルバム・タイトルなのか、グループ名もそうだったのか今一つ判然としない。)
また、年の数が上がっていくパターンといえば、作家の直木三十五を連想させる。律儀に変更していたわけでもなかったところも似ていて、なんだかおかしい。
もっとも毎年変更していたら、後年権利関係の対応が複雑になっていたかもしれない。

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筆者は裏方に興味がある方なので、虫眼鏡でCDのクレジットを確認することが多い。
プロデューサーがハーブ・アルパートなのはルーペがなくても分かる。レーベルもA&Mなので(AはアルパートのA、ついでながら前述のラニ・ホールとは後年結婚している)まあ当然として、エンジニアはブルース・ボトニックと記載されているのがちょっと意外だった。ブルースといえば1966年はゴールドスター・スタジオでビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』を録音していたはずで、翌1967年はドアーズを手掛けることになるが、その合間にバイトしてたのだろうか?
そういえば、ラリー・レヴィンもゴールドスターからA&Mに転職していたはず。これまたネットで深堀りすればネタはいくらでも転がっていると思われるが、本当にとりとめがなくなってしまうので、本件はここらで打ち止めにして、さっさと公開しようと思う。


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