満ちて溢れるまでの話―新年の目標に寄せて②

『2020年の大きな目標は、「私と周囲の人々に目を向けていくこと」。・・・・・・・こんな目標を立てたのは、’いまの私’が満ちている人間であり、’以前の私’と比べても人に多くを渡せる、と思えたから。単に多いというより…質・量ともに段違いかもしれない。』
ちょっと前回のこの表現、言い切りすぎでは?!謙虚になった方がいいのでは?!と、ある私が私に言ってきた。少し怖くなったのだ。自分を過大評価していないか、過信していないか、と。でも、やはりこの表現のままでいきたい。いまの私を満ちている人間と表現した、いや、あえて’決めた’のは、これ以上自らを満ちていない人間と決めていては、いつまでも足りないものを求めてしまうから。自分にしか目を向けられなくなってしまうと思ったから。

さて、話を元に戻してみる。

『2019年初め、「いま、私は底にいる。ここから先はもう上昇しかない。」と思った。』
ある意味で開き直って、覚悟を決めた。

そこから私がやっていたのは、自分満たしだった。始めた当時は自己肯定感を上げる、自信をつけるといった言葉で理解していたけれど、自分満たしがしっくりくる。いまの私は、欠乏感がない。何かを渇望していない。のどが渇いた、水が欲しい、といった切実さがない。潤っていると感じている。この’水’で喩えているものの正体とは何だろうか。

喜びが’溢れる’、怒りが’湧く’、幸せで’満ち足りる’というように、感情は水に関する言葉を使って表されることがある。感情が次々に、自由に形を変える様も水を連想させる。西洋占星術において、感情が水のエレメントに属しているのも昔の人が同じように思ったのだろうか。調べれば両者の繋がりについてナニカシラ奥深い話が出てくるかもしれない。では、上記の’水’で喩えられているのは感情だろうか?かすってはいるけれど、違うように思う。感情を伴い、かつ感情を静めるものではあるが、もっと大きな枠組みのもの。適切な言葉がみつからない。エネルギー、オーラ、生命力、私の源、というのか…。なんだかだんだん怪しい話になってきた笑

次々に新たな話をして申し訳ないのだが、私は、人は自分の中に器を持っていると考えている。(もしかして色んな器があるのかも…というのは、今回はちょっと置いておいて。)誰の中にも、自分満たしにおける’水’(どの言葉を選んだものか…)、つまり”私の源”を貯める器がある。ソイツが貯まっていくことあるいは貯まっている状態には、幸せな気持ち、安らかな気持ちが伴われ、不安感や恐怖、イライラが静められるのだ。

器を”私の源”で満たすことが、’いまの私’の幸福感・安心感につながっていく。過去の自分がどうであったのか、どんな過去を持っているのかは関係がない。未来にどんな不安があるのかも関係がない。’いまの私’が一時の幻の幸せではなく、地に足のついた幸せを感じられるかどうかは、器が”私の源”で満ちているかどうか、がただただ大事なのだ。


長くなってきたので③につづく。

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