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劇団壱劇屋 4都市ツアー『劇の劇』

劇団壱劇屋 4都市ツアー『劇の劇』

作・演出 大熊隆太郎
@シアター711

2020/1/30 15:00開演

大学で講義を受けてるみたいな感覚だったな。

私の専攻が美術・映画・演劇・その他サブカルチャー類を扱うもので、今期も物語論の授業を取っていたというのも有ってそんな感想になるのだけど。まさに後期でとってた授業が物語論のなかでも特にメタフィクションを取り上げていて、授業の最後では映画『インセプション』の一部を取り上げて「あなたが現実と思っているものも実は夢かもしれない。でも夢をずっと見ていたほうが幸せなのかもしれないね」みたいな“怖い話”で終わったものだから。

この作品はあの講義の演劇化作品か???と思うほどだった。

でも、それだけじゃなくて。身体を駆使してそれを立体的に作り上げエンタメに昇華できるのはさすがの壱劇屋というところ。前に一回『Pickaroon!』を見ただけだけど本当にみなさまよく体を使えるし、あんだけ体をコントロールできてイメージと動きにズレがでないと演技してて楽しいだろうな〜と演劇サークル所属大学生の人格がコンニチワする。

どれも物語の枠組みを破壊再構築し続ける面白い構成だったけど、一番印象的なのはどこかな〜って考えた時に思い出したのは、『死の後の言う話』と、ラストの『劇の劇の』。

『死の後の言う話』で気になったのは「役者は役をやめることができるけど、役は役をやめることができない」「“死んでいる”演技と“死んだふり”の演技は違う」のふたつ。
ちょっと前まで刀剣乱舞にどっぷりだった&劇団おぼんろ崇拝人間としては、人間が思いを託し語り継ぐことで物に命が吹き込まれるってことに非常に興味があると言うか....日本のものに心を寄せる文化が大好きだし、語られる限り物語が続くように、信仰される限り神様が存在するように、役も続いていくのだな............と遠い目になる。
そして演劇の面白さは、舞台上で起こることはイリュージョンでしかなくて、そこには物語の枠組みの外にある現実の嘘が常に内包されているということにもあると再認識できたのが「“死んでいる”演技と“死んだふり”の演技は違う」の下りだったかなと思う。実際は役者は死んでないのに観客はその役が死んだと認識でき、リアリティすら生まれてしまうこともあるのは客観視すると面白い。たとえば、何万もの兵がいる戦場の場面を演劇化する時、実際に舞台上にいるのはほんの十何人だったとしても確かに“いる”ものとして感じさせることは可能だ。実際にはいないのに。そうやって、常に演劇には嘘が含まれているのにそれを良しとしてしまえるのは、舞台上の人々の力だけではなく客の想像力が働いてるからなんだよな。「お客様なしには演劇は成立しない」とよく言われるその由縁はこういうところにもあるのだと思う。

そして『劇の劇の』。名前からして示唆的だけど、この作品鑑賞後に続く“人生という劇”を思わせる内容だった。最後の暗転前の、男が舞台を降りて客席入り口から出ていくこともすごく示唆的。演劇についての演劇だから、どうしても演劇ってもんは一体なんなのかってところに目がいくのだけど、ここで考えたのは演劇の面白さって第一に空間場所を共有するというところにあるよな、ということだった。ただ見たり聞いたりするだけじゃなくて体験を共有するから演劇作品の記憶は強く身体に刻み込まれるように思うし、メタフィクションの枠組みの破壊がより生々しく現実に突き出してくるように思う。そこが私は大好きだ。生に勝つものはない。

演劇とはなんぞやということを見つめた90分間だった。見れてよかった。

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