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野田秀樹『赤鬼』のこと

2020/07/28 19:00公演鑑賞

作・演出 野田秀樹
@東京芸術劇場シアターイースト

開演時間。フロアの役者たちが手に持った杓子、バケツ、ザル、ホースetc...でリズムを刻み合い、その饗宴、俳優の声、身体に会場全体が飲み込まれた瞬間に「あぁ、わたしはこれを見たかったんだ!」と震えた。

ここ3年、毎週一本は演劇を見るような生活をしていたはず。だけど2月末にままごとを見て以来、約5ヶ月ぶりの生の演劇だった。

これもすべてコロナのせい。

我慢が長かった分だけの歓喜もあったけど、二度とごめんだ...生の演劇がやっぱり格別。そして中規模の劇場で見る野田も格別だった。素晴らしい公演だったと思います。

コロナ対策のこと

パンデミックの中での観劇というのはなかなか今後経験することもないだろうから、感染対策をまず記録しておこうと思う。

シアターイーストの正面、受付にはビニールカーテンがかけられ、スタッフは全員がマスクとフェイスシールドを着用。もぎりはチケット券面を確認してもらって自分で半券をちぎる形だった。手をアルコール消毒し、当日パンフレットも机の上から自分で取る。ロビーと会場の境には靴底消毒用のマット。椅子はひと席おきに千鳥で置かれ、一度座ったら移動は不可。そして舞台と客席の間はビニールカーテンで隔てられている。終演後は規制退場で出口に近い側から順番に退出。

徹底的な感染対策に、観る側としては安心感を感じた。ただ、この上演では演出上肌が触れ合う場面は特に自粛もなく上演されていた。一概にいい悪いとは言い難いが、主催側の判断に委ねられた部分で団体により対応が異なりそう。見る側としてはストレスなく観ることができたが、いくら感染対策をしているとはいえ100%安全などということはないし、役者たちが裸足で駆け回ることを鑑みても、役者間での感染リスクを考えざるを得ない。

困難な状況にどう向き合っていくかということ

ところでこの作品で描かれていたのは、得体のしれないものに対する恐怖に始まる差別だった。

主人公は”あの女”と呼ばれ村の人々から疎まれている。それは「よそからやってきたから」という一点からくる。それだけで嫌うには十分で、何を言っても聞きもせずただひたすらに差別を繰り返す。そんな反応は赤鬼に対しても同じだ。いわゆる村八分の状態になるわけで、過剰とも感じるほどに拒否反応が描かれる。愚かだ、と思う。

しかし、現在のコロナ禍で存在する”自粛警察”とそれの何が違うのだろう。

彼らは本当のところ、危険を排除したいわけじゃなくて、安心が欲しいだけなんだ。得体のしれないものに対処するにはまず相手のことを知り、それから適切な行動をするべきだ。けど、村人も自粛警察もそれをしない。

”あの女”も劇中で「見通せる向こうがほしいのよ」というが、その通りで。仮想敵を作り、”排除しているからもう大丈夫だ”というコントロールできていることの安心を得たいがために彼らは拒絶をする。

客観すると途方もなく愚かな行為なのだけれど、他人事でもない。馬鹿にもしていられない。夏になっても内定がなく就活から逃げたい、拒絶したい、見ないふりをしたい、という気持ちが脳内にある自分を思って、自分は村人だと思った。

今見たことが、私にとって大きな意味を持つだろう。

やっぱり演劇が好きだ、ということ

2月末以来の観劇だったわけだけれど、だからこそ当たり前のことに驚くことが多かった。

役者さんの声ってこんなに空間全体に満ちるものだったっけ!身体から放たれるエネルギーの圧、すごい!!持っている体は若々しいはずなのに、どっからどう見ても知的障害を持つ人、異業の鬼、老人にしか見えない!演技力よ!!とか…バカにしすぎかもしれないけど、いちいち感動した。

いちばん驚いたのは、見立て演出の巧みさ。

野田秀樹と言えば見立て演出がアイコン的に取り沙汰されるものだけれど。今回も美術がほとんどなく、ブラックボックスの中に白い長方形のシートが敷かれ、そこにちゃぶ台型のオブジェが一台あるだけだった。けれど、そこは砂浜にも、女が住む家にも、洞窟にも、大海原にもなるのだと思ったら、「すごい!」が止まらなかった。ここは東京の、池袋の、ごみごみした都会のとある建物の一角でしかないのに。

演劇には不可能はないのだ、と。

人間の想像力さえあれば、何にだってなれるし、どこにだって行ける、ないものだってある事にできてしまう。演劇よりも自由なものは、世界にないんじゃないか。そこが演劇の最も原始的で重要なことなんじゃないだろうか。

その重要なことを落とさずに演劇をしている野田作品が大好きになった。

2年ほど前、『桜の森の満開の下』でも野田秀樹演出は見ていたのだけれど、そのときはわりとアンチ寄りだった。「最後の桜吹雪は美しかったけど、全体的によくわかんなかったな」と。でもそれはシアターイーストの何倍もの広さのプレイハウスで壁に張り付いて立ち見で見たものだから、彼の見立てや身体を駆使した手腕が見えなかっただけの事だったのだろうと思う。

野田演出のうまみを感じれるのは、大劇場よりも小劇場なんじゃないだろうか。かぶりつきで、役者たちのエネルギーと対決するようにみれた今回の充実感。

それにしても良かった。改めて、演劇が好きだ。

いつも東京芸術劇場に行く時は、キッチンチェックでポークソテーを食べていたのだけど、日常が戻ってきたようで嬉しかった。

まだ完全に元どおり、ともいかないけれど。徐々に安心して演劇を見れる状況に戻ってくれたら。

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