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京大連続講義(1)哲学②「自己をめぐる現代哲学」出口康夫先生

京都大学のオンライン公開講義
テーマは、ウィズコロナ時代に必要な「人文学」

7/18(土)哲学② 出口康夫教授
自己をめぐる現代哲学(東アジアの「真の⾃⼰」については来週)

【一言感想】2週間ぶりの出口先生。相変わらず難しい話を優しくお話してくださるのだが、やっぱり難しいのであった。自分が自分であることの証明もなかなか難しいものである。

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スライドはYouTubeで、出口先生の映像はperiscopeでどうぞ。

自己をめぐる現代哲学

デカルト
自己=考える(疑う・見る)「私」主体&実体
主体はDoer
ヒュームの原理:「見えるもの」しか存在しない
・赤い布を「見ている私」は見えない。
・鏡の前にいるのは「見られている私」であって、「見ている私」ではない。
・対象は見えるが、主体・実体は見えない
・火は火を焼かない、目は目を見ない(仏教)
・デカルト的自己を否定:「見る主体・実体」は存在しない
カント:アンチ・ヒューム、アンチ・デカルト
・知覚経験は複数の「見え」が同一視されることで成り立っている(2週間前の出口先生と今日の出口先生は同じ人だとわかる)
・「同一性」は、主体=「私」=「自己」によって判断される事柄
・この「主体としての私」が存在すれば、「見えの同一視」が成り立つ
・逆に「主体としての私」が存在しなければ、「見えの同一視」は成り立たない
・論理的等置関係(Logical Equivalence)
・真理値の運命共同体関係
・超越論的論証
・カントの自己:世界の秩序を設定する「考える主体」=デカルト的自己の非実体化
ハイデガーの「カント的自己」批判
・カントの活動的自己:「主語+述語」構造の「主語」として表現されている
・「主語」:単なる「活動者(活動の主体)」だけでなく「実体」をも表してしまう…デカルト(アリストテレス)的実体が密輸入されてしまっている…
・言語表現を断念せよ!自己を究極的には「語りえないもの」とせよ!
・自己は「覚悟せる実存の沈黙」によって表現するしかない
・(実体化が不可避の)「活動者」なしの「活動」(DoerなきDoing)
ハイデガーの自己:沈黙によって表さざるをえない「出来事(活動者なき活動)
(日本語のように「主語」ではなく「主題」が支配的な言語では表現できるかも)
・自己論は現象学と(心の哲学・行為論といった)分析哲学の交流領域となっている。
・西洋哲学と(仏教等の)東洋思想の交流領域でもある
・自己論は、西洋哲学と東洋思想にとどまらない「世界哲学」の重要トピック

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ミニマムセルフ
自己の持つ権能・機能が様々な仕方で最小化された自己

ナラティブ(物語的)セルフ
ある特定個人のライフイベント・エピソードからなるナラティブ(物語)の主人公兼語り手としての自己。「私」の物語の主人公兼語り手

エコロジカルセルフ
人間関係・社会関係のみならずエコロジカルシステムとそれを構成する自然物(生物・無生物)と「同一視」された自己

自己と私の分離

・「自己」=「私」:多くの哲学者にとっての常識
・「われわれとしての自己」は、「自己」=「私」の等式を切り離し、自己の「脱個人化」「われわれ化」をはかる
・なぜ「自己」=「私」はそれほどまでに強固なのか?
・しばしば自己と結び付けられる性質の多くが「脱個人化不可能」(なように思える)から
・私は私の身体を感じることはできるが、他人の身体を同様に感じることはできない
・私は私の死を死ぬことができるが、他人の死を死ぬことができない

自己の脱個人化戦略

身体行為者性(somatic agency)を
委譲・委任・ゆだねること(entrustment)

出口先生が提案している「われわれとしての自己」を理解するために、また来週、がんばって切り離していくことにします。その戦略は委譲です。


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