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死 see you again and again


2021.11.25(最終更新)


」は、決して軽々しく扱ってはならない、扱われるべきでない言葉達の中で、筆頭格に位置付けられる。
2021年現在、今のところ常に重く扱われるべきテーマことばとされている。(AIの知育が更に進んだ暁には扱われ方にもまた変容が訪れるだろう)

この言葉ガイネンについて語ること、語られることを好む人や場面はそう多くない。だが無視できない決定事項として、は全員にいつかは必ず訪れるという点がある。
それはこの「今」という時点からカウントして明日の事であるかもしれない。
わたし自身は次の瞬間かもしれないという意識をできるだけ念頭において生きてきた。
忘れかけていたタイミングで東日本大震災が起き、これにまつわる社会現象の渦はわたし個人の意識にも甚大なso huge余波を与え、精神が立ち上がり再び歩き始めるに至るまでには約1年半の時間を要する事となる。(こう書くとその専門分野の医療機関にもお世話になっていたように感じさせるが、それを自身に対して疑った最初は11歳の時で以降35歳までの期間、大小を問わずアトランダムに心療内科・精神科に都度かかり自己査定は丹念に済んでいる。つまんない話だしこの全件について明かした人はこれまでに一人もいない。7箇所の医療機関にて異常無しとのご回答を頂いている為ご心配は無用かと思われる。わたしは始終、自分をこそ常に疑っていて、単なる探求なのだがそれが過ぎる時にはいつも誰かが嗜めてくださっている。震災直後以降の時期に主にお世話になっためいわくをかけまくったのは、Oくん、Mちゃん、Skoちゃん。他にも大勢思い浮かぶが、この時期には特に、ほんとうにこの3人に支えられていた。ありがとうございます。)


自我の形成が順調に進み、自分だけの思考体系を形づくる段階に入って以降にはずっとこの事を考え続けてきた。【関連:一期一会
幼少期(年中さん〜卒園後あたり)、祖父母との「またねSee you」は毎回、今生こんじょう最期の別れレベルの大号泣だったのを憶えている。
『もうこれっきり会えないかもしれない』
次の瞬間にはどちらかが死ぬかもしれないという考えが、何によってその感覚とともに植えつけられたのかは思い出せない。大人達は困りつつも笑っていたが、泣く以外に成す術はない、圧倒的な絶望だった。
「死に向かって進むんじゃない、死はいつも真隣にいるんだ」と意識し始めたのもこの頃からだったように思う。
言葉にできていない、言葉にし切れていないだけで、
全コドモはオトナが考えるよりずっと多くのことを
(その感覚をもってして)知り得ているのだ。
【関連:My Heart Leaps Up When I Beholdより一部抜粋
子どもは人類の父であるthe child is father of the man(筆者はこの訳で教わった)」

「そのようなこと考えで無駄に頭を疲弊つかれさせる必要はない」
わらう人とも会ったし、優しさからそのように言ってくださる人も多くいた。(筆者の辞書に無駄という字の記載はない、無駄無駄の記載はある)

だがしかしより良く、面白く人オカシク生を「生きる」ためには、太陽と月のようにsetになっている「死」について、思考を試みないのはナンセンスな気がしたのだ。(だがしかしってすごいぶりに使った〜笑「だがしかしだ!」とか言う漫画かアニメの中のヒトいなかったっけか)


つまり、わたしにとっては、死について熟考することは「生きる」にあたり重要な起点introductionだったのである。


わたしは1988年に今生においての核たる部分COREについて、おおよそのデザインの外角の下書きを言葉によって描き切っていたがその一線の中の一つに、濃く太い線として「」がある。
なぜそれが9歳の時だったのか。
背景のひとつには、一方の親 parent の系譜が寺族じぞくだった事が影響したものと思われる。禅宗(壁に向かってする方の一派group)の教えを現代に紡ぐtale家系の末裔(こずえの先の)のひと枝だった。


わたしが耳からとして、般若心経ハンニャシンギョウを憶え始めたのは幼稚園の頃の事だった(この頃は当然きちんとはめていない、現在の筆者がそらで詠めるのは般若心経一巻と観音経普門品偈フモンボンゲのみ、ほとんどの場合ある種のマントラとして唱えるので呼吸をなるべく挟まずに詠むことが多い。のちに進学する事になるカソリックの学校からの影響もあり十字を切ることもする。これは調べ物の延長で訪れた京都・鞍馬寺 山 で、外国の観光客の方々の、各々が通過した信仰の形表現形態で祈っている風景と出会でくわし『なるほどー、祈り方の形式必要以上にはこだわらなくてもいいよなぁ』と教えられた経験にもとづき、それまで所有していた固定観念に変容が生まれたという背景もあわせ持つ。家紋が十字なのとも何か関係があるのだろうか... 十字を切る所作は「 I 」自我?を横断する動作である)。
読経は、大好きな祖父(故15代目住職)が本堂で挙げるをそのまま真似て発していた。
完全に音楽として捉えていたと思われる。
その頃からバイオリンを強制されていたので、おのずから耳で憶えたのかもしれない(バイオリンは365×5年練習したがとうとうあまり好きにはなれなかった、自由意思もとづく選択でなかったのが原因のひとつである。また、自らが奏でる音色以前の問題点として弦と弓の擦れる音が苦手だった)。

本堂の天井は高く、乾いた空間で、音は他の空間とは少し異なったふうに響き、とても愉快だった憶えがある。
祖父の読経どっきょうをリピートしていると檀家だんかさんなどが褒めて笑ってくれたのでますます調子に乗り、歌うように声にした。そのくらいの年齢の頃は大体の場合なにをしても誉めてもらえる時期なので、たのしかったのは勿論そのせいもあるだろう。また、わたしに兄弟はいなかったので、オトナのマネをして遊ぶ事が多かったのだ。

について真剣に考えるに至ったには、テレビの特番で観た「ノストラダムスMichel Nostradamusの大予言」で死後がこわくなったのもひとつのトリガーきっかけで、そののち高校生以降に読むことになる(思い出した、初めてきちんと読んだのは2004年に友人Tのお宅へお見舞いで遊びに行った時だ。彼女は所謂いわゆるお嬢さまで抜けるような美しい白磁器に似た肌をしており口数の少ない美人だった。ゴールデンレトリバーの2歳のお誕生日にキャロットケーキを焼いて家族でお祝いをしたと聞いていたので、人間用と犬用のお土産おみやを持ってお邪魔した思い出。ぱらぱらと読んでこれは書物しょもつとして所有すべき漫画だとすぐに感じた)「ちびまるこちゃん」作中のエピソードを通じてさくらももこ先生も同様の通過点を通られたらしき事を知り、ほっこりした。

わたしは何事においても言葉を起点にするため、『こわい』というのはどのような機序しくみで引き起こされるのかの原因をまず探した。
これはすぐに見つかり、『わからない(未知)』に起因するらしいことがすぐに判明した。
『わかるようになればいいのか』と、
問題を解決しようと、まずは大人達や教師に訊いて回った。だが大体の場合、更なる疑問点が浮かび上がるのみで納得のゆく答えは得られなかった。ノストラダムの予言の話をすると歳の離れた従姉妹たちは「産まれてきたばかりなのに」と爆笑したので、なんかおもしろくなくなって一人で調べる決意をしたような気がする。
人にくのを諦めたわたしは、祖父母の書物棚を隅から順にあさってゆくことにした。太閤記、太平記、竜馬がゆく、ユダヤ人と日本人、新書、、、歴史モノ系がまとめられた小説の棚は同じ装丁のものが延々並んでいるだけなので早々に無視した。
心理学系、お料理本、編み物、俳句、茶道(この家は裏千家なのだ、なのかぁ)・花道・三味線の作法書、、、ちがうチガウ違うコレジャナイ、見つけられないじれったさ(『こわい』はこの時にも継続的に滞在していたので)のなか突如として、
『ははぁこれは応接間の書籍群にはなさそうだ』と、
途中でピンと来たわたしは別の場所を探すことにした。
大事なことは隠されていることが多い。
『この棚だ』
心霊系オカルトと宗教系(仏教関連)の並べられたその棚は、
二階の寝室の隣の北部屋にあった。
くだんのテレビ番組で紹介されていた「ノストラダムスの大予言」も見かけたが、これは装丁がなんか不気味で色が好きじゃなかったので棚に戻した。
そもそも題名を目視していく時点で読めない漢字も多かったので、選定作業はイメージだけで進められた。
『これだ、絶対これにしよう』
手にしたのは、ダンテ神曲だった。
知っている文字の組み合わせだったのと題名も短かった。子供ながらに『神の曲なんてすてき、あるなら聴いてみたい』とおもったのを記憶している。ぱらぱらと開いてみた時に目に入って来た絵も、また気に入った。

わたしがその当時こわかったのはノストラダムが残したと言う叙情詩とどまらず、説法や本堂に置かれた書物から出てくる地獄と言う言葉、陸からは虎、天からは龍に睨まれながら険しい顔をして一心に読経をしているらしき一人の僧侶が描かれた、本堂の一部にあたる一室の壁に飾られている大きな水墨画?も、目に触れると地獄を彷彿とさせて、「地獄」にとらわれると居てもたってもいられなかった。友達と駆け回って遊んでいる間にもその影は思考の隅にいつも滞在し続けてわずらわしかった。早急に解決しなければ、その恐れラグを解消できなさそうに思えたのである。
そのキーワード地獄を含むダンテの「神曲」は、
問題解決への最短距離にあるように思われた。

死そのものについては当時から、こわくはなかった。

都心部から新幹線で1時間半程、駅から車で30分程の山間やまあいにあるその辺りは豊かな緑に包まれた場所で、
幼稚園の年中さんの1学期半ば迄(祖父に余命宣告が渡った小学1年生の数ヶ月も東京から編入した期間がある)をわたしはその土地で過ごし、以降は海外在住期間や受験期等を除き夏休みなら40日間(18歳で祖母が他界するまでは春休み、GW、冬休みも滞在可能日数MAX期間で。高校卒後の春休みは残り8日程を余して例年より早く戻った記憶がある。病院に祖母を置き去りにしたようで罪悪感があり、それでもそれ以上の時間、死にゆく祖母の傍に居続ける事は当時のわたしには到底不可能で逃げた。そういえばこの時期にも月経周期は乱れて遅れていた、身体カラダはカラダで、何でもよく知っているな)

その豊かな rich 土地で遊び暮らしていた。

わたしはその自然から圧倒的な恵みと安心感をふんだんに与えられ、それらをしっかりと感受していたし、身体カラダを持っていても持たなくても、この自然は変わらない、安定した脈動でわたしを安心させ続けるだろうという絶対的信頼について、本能も全面的にその感覚を支持した


(通過点)など、まったくの問題点ではなかった。(これは以降どの局面においても今のところ変わっていない、ただ通過のその瞬間はくるしいっぽい。産まれる時には母体も苦しいらしいので、立ち去る時は肉体的な意味合いにおいては、自分ひとりだけがくるしいというのは、なんか心の荷物が軽くなったようで良い点と気楽に思う)

しかし環境お寺柄、地獄だ天国だなどという思考を惑わす言葉がわたしの日常には度々登場したので、死んだら自分が地獄へ転送される可能性があるのかどうかは早めに予測しておきたかった。
(これは、22歳には『地獄は地上にあったんだな』を通過し、35歳あたり以降には『行き先地獄でもわたしならその場所で友達作れそうだな』に変わる、天国も同。在るとしたいのなら、これらは地上に両方在る2002〜)

親に宿題の進捗について尋ねられた際に嘘をついたり、「いけない」としつけられていた約束事を破りまくっていたり、お寺の者であることやルーツに関してを含む内内うちうちの話はお外で口外してはならない等等々...言いつけの大概は全面無視で人生運行していて叱られてばかりだったので(というか夢中な時にはすべてがおざなりになるし)、地獄行きについては日頃から身に憶えしかなかったのだ(この頃は親が法だった。家庭内にまで及んだ封建的君主政のような風潮は国外からのも受け教育全般における長期的な施策やプログラムの影響の成果として21世紀を皮切りに段階的消滅の方向性だと今のところ考えており、この事に間違いがなければわたし個人は『大変よろこばしい事よな』と、とっても満足している。緩やかに移行するといいな20211025)。

「地獄」はこわいので、9歳のその時点で転送される可能性がどのくらいなのかと、まだ若いのでそのの善行で取り返しがつくのか否か、そのためには逆算してどのくらいの時間的尺度が必要そうなのか。いや待て、ノストラダムスの予言(テレビでの解説者の解釈)が的を射ていると仮定したなら1999年に世界は滅亡し、2000年に成人する予定のわたしは短い人生になる。
あと10年... 。そしたらかなりな量の善行を重ねないと既に取り返しがつかない箇所の時点にいるのかもしれない。実際のところどうなのか正確に測定するには、ノストラダムスについて深く調べる必要性も... 。
9歳のわたしの思考は真剣に忙しく、遊んでても焦っていた。
ひとまずは神の曲ダンテからだ。

この本だ!
幼い本能がそう叫び、確信に満ち満ちてダンテ神曲地獄編を手にはしたものの、9歳のわたしにはわからない漢字が多すぎた。わたしは辞書を何冊かも、同時に本棚から取り出した。

不要な邪魔が入り作業が中断しないように、この作業は夏休み中の40日の間の(主には)夜半に行われた。
同い歳おないどし幼なじみC(彼女は淑やかで聡明たる良妻賢母へ変容するがこの頃は山猿のようなわたしとパワフルに遊んでくれた、だいぶ後々まで定期的に文通もしていた。彼女には2つ歳の離れたお姉さまがいらっしゃり、お母さまと揃って3人ともうつくしかった)と毎日のように遊んでいたが、彼女に用事があって一緒に遊べない日にも、オトナの目を盗んではその作業に従事した。
多くの子供たちがその時々ごとに真剣なように当時のわたしも真剣で、かつ、個人的にはかなり深刻な状況だった(ディズニーランドならともかく地獄なんか行きたい訳がない)。
夜半には枕元においた蛍光灯のもと、単に読書をしているだけなんです、というテイで行なった。隣で眠る祖母は気がついていたかもしれないが、彼女もまたマイペースであるため(もしかしたらこの頃からがん細胞は彼女に潜んでいたのかもしれない)、すぐにスゥスゥと眠りの世界へ旅立っていった。
地獄編」という文字を他者に見られることで起こるかもしれない面倒ごとの一切に注意・警戒をしながら、この作業は粛々しゅくしゅくと黙々と行われた。
作業遂行のためにわたしが引き換えにしたものがあったはずだが、それはたぶん夏休みの宿題の進捗と新学期が近づく夏の終わりの睡眠時間だろう。
小学校の夏の終わり8月29日からの3日間は、不眠不休の修行(宿題)だったような気がする。
「自業自得」という仏教用語を身を持って体感したのもこの三日間であった。

こちらの親側の家系の続いた年数について親族に尋ねた1991年頃時点で、家系図では確か360年くらいだ、アメリカの建国の歴史よりかは長かったと聞いた、だとかいうワードをわぁわぁと何人かが言っていた気がする。元来が全員おおざっぱな性質の血筋なのだわら。現住職16代目に正確な年数をいずれ確認をおこな...わなんくてもいいんじゃないか?単位としての数字を追う作業には飽きていてめんどくささと無意味感が若干あるっちゃある20211001 いや、やっぱりいずれ知りたい。そして着物にあった十字家紋のルーツも調べたい20211003


前述した紡ぐtaleという行為については日常生活の延長線上で、わたしもほんのりとは継続しておこなってきた。
そして本当にふしぎなことに(生い立ちに宗教的背景を持つ・持たないにかかわらず)、生きている道すがら、似たような同じ行為を自然と身につけておこなっておられる方々をほんとうに大勢、お見かけする。


2017年冬、その駅に降り立ったわたしは、待ち合わせ時刻までの時間ヒマつぶしのため、視界に映ったファーストフード店へ入った。

それは12月の寒い日の事で、空はどんよりと重たい色を放ち、ミゾレになろうとしている水の粒がぱらぱらと、その街にだけ舞い降り始めていた。


曇りガラスで対面を隔てられたカウンター席だった。
少々混んでいた事もあり、わたしは先に席を取ろうとしていた。
悩んでいるらしい地元友人Tとのイヤホンマイクでの会話もそろそろ終盤で、話しながら入店してしまっていた事もあり「じゃあまたねSee you」と話を切り上げながら席に荷物を下ろそうとしたその瞬間、曇りガラス越し対面に座っている帽子を目深まぶかにかぶった青年と一瞬、目が合った(ような気がした)。

わたしは考え事をしている時(睡眠時とあの時以外に思考が休憩することはあまりない)、特にひどく集中して思考している最中だと、外部から目を通して入ってきた情報が思考に届くのが遅れる事が度々ある(Skoちゃん、あの時ファミマの自動ドアでお顔認識して反応するまでにだいぶ遅れてごめん2011、けどこの話は2人にしかわからない永遠の笑い話だよね)。
連続的動作の中断はなくそのままに身体カラダは一旦席についたが、思考が少し遅れて「あれ?」と思い、中腰の姿勢に戻って曇りガラスの上から目前を確認すると、その青年も咄嗟とっさにマスクをずらして幾分腰を浮かせた状態でこちらを見た(こう書いてたあったけどマスクしてたっけ、もうこの頃には有名になって来ていたんだったっけか?帽子だけだったかもしれない。彼はイヤホンをつけて何かを読んでいた)。

彼は音楽(わたしの主観ことばでは哲学の方がふさわしいと思っている)をバンド形式で表現する事に人生の一旦の目標を定めており、ライブハウスでよく顔を合わせる友人でもあり、わたしよりちょうどとうくらい下の世代の青年であった。
わたし達は互いに驚き合い、その偶然に、ちょっとだけ悦び、面白がり、何をしているのかを訊き合った。
(脱線するが重要なので書きめておく。実際のところ我々ニンゲンが「偶然」と呼んでいる現象の方が「奇跡」と呼ばれるたぐいのものより発生確率は格段に低い、と本日時点でわたしの本能はそう決定した20211001 このテキスト記事を書きながら並行してインドのことを考えていたが最中、実に久方ぶりにインド人の知人からの連絡が入った。「偶然」の方こそ珍しい、わたしは普段特にインドについて思考することはあまりないしインドのヒトからの連絡は今年の2月ぶり。彼についてわたしが認識している事といえば男のヒトだという点と物理博士号を持ち、アジアを中心に4社程の会社を営んでらっしゃる事くらい。この方の強引で不躾なところがとても嫌いで2008年以来お会いしてもいない。年に二度ほど連絡が届き、わたしはその度にインドの事を考える事になる。そういえば経営に特化する者に、複数の企業を受け持つひとTypeが多いのは何でなんだろうか。)

 「 え、なにしてんの? 笑 」

そこは、普段よく顔を合わせる街でもなかった。
わたしは待ち合わせまでの余白が小一時間、彼はその時分に劇場公開中だった、
 『 ベイビー・ドライバー( Baby Driver )』
( エドガー・ラ Edgar・Wright イト  発表年  2017年 )

の、次回上映時刻までの時間潰し中で、
お互いの持つ残された余白の時間的単位数もちょうど同じくらいなことが会話から確認された。

「 サク飲み行かない? 」
彼からの提案でわたし達は、駅前のファーストフード店から小さな居酒屋へ、プラスチックの椅子から木で造られた椅子へと移動した。

人間というのはどうやら、1対1でおこなわれる対話の時間/空間での方が、大人数の時のそれより、本心や本音、文明における普遍的テーマに触れる話題、『奥の部分』に潜む言葉が抽出されやすい特性を持つようなのだった。(わたし自身もこのマンツーマンの条件下で、自分の口から出た言葉に自分で驚くことが少なからずある。誰にでも憶えのある事と思う、代表格に、落ち込む誰かを何とか励まそうと言葉を尽くしている時に出てきた言葉フレーズが結果自分自身への鼓舞はげましにもなった、等々)
情報に公開の段階フェーズがあるように、我々歩き始めたばかりのおサルの思考、意識にも階層があり、それは地層とも似ている。
(もちろん、これらすべては似て非なるものである)
あらゆる対話においてわたしはこのフェーズの深層部分からの言葉を発し合うラリーの方をより好むようで、大体の会合sessionはなんとなく自然と「ふたり」になる事が多かった。

二人きりの空間と時間で向き合って話をするのはそれが初めてだった。
(これもわたしの主観?ハコライブハウス内であっても切り取られた空間と時間カンカクの中で「ふたり」というこの日の夕方に似た瞬間はあったのかもしれない、居酒屋には他にもヒトはいたので)
わたし達はお酒を注文し、タバコに火を点けながらおしゃべりを開始した。

どういった脈絡でその話題に至ったかは憶えていない。
共通の友人Kのご両親の死について、話は飛んでいた。

友人Kとわたしはその当時おなじ街に住んでいて、ライブハウスでも会うがスーパーマーケットでばったり会ったりもしてしていた。
その年の初夏、Kは偉大な父親(彼のお父さまに限定されず、そこにいてもいなくても全世界の母親と等しく全ての父親偉大である)と今生のお別れを迎えていた。
社会的側面から観ても高いご貢献をもってしてご立派な一生を構築なされたお父さまの死(と生)について、Kが遭遇し目をそらさず見つめ続けたKの居たワンシーンとその時間から学び得た知見とを、とあるSNS媒体を通じて共有shareしてくれていた。(近ければ近い程この見つめる作業はほんとうに苦しいのだ)
目の前に座る彼と同じくKもまた、バンド形式で音楽を表現する活動をおこなっていた。
(心の奥底からいつも応援しているよ)

「読んでて声が漏れるくらい号泣しちゃったよ、
 ほんとうに良い文章だった」
そのSNSはやっていなかった彼に、
わたしはKの投稿記事について話した。

すると彼は、ギターの弦をつまびくために創られたかの様にうつくしい造形のその手と指を使い、ゆっくりとした動作でタバコの先を灰皿に落とし深妙な面持ちカオを見せ、

「おれ、すごい近いって感じる人の死って
 これまで多分まだちゃんと通ったことないんだよね」

(一言一句たがわず彼の言葉の再現は難しい、これはアルコールにひたされたわたしの思考フィルターを通過したあとの言葉だ、たぶんこんな感じだった)

と言って、しばし考え込んだ(ように見えた)。
この時、彼は確か27くらいだった。

その台詞verseに続く話を語ってくれていたと思うが、わたしの頭の中は彼のこの言葉から、『ああ、わたしにとっては死と向き合う機会(Chanceは日常的なものとして幼少期からそばにあったけれど、全員みんなが一緒の条件じゃないんだ。そりゃそうか、あたりまえか笑。けどこんな比較、考えてみたこともなかったし、一人じゃ思いつきもしなかったかもしれない、ありがとう』だとか感嘆したり、ヒトとヒトとのそれぞれの辿って来た背景ドラマの違いに興奮したりしていて、話の続きはあんまり聞いてなかった(懺悔ざんげするがわたしはしょっ中この調子で目前の人の話す内容を、途中から集中して聞けていないことが結構ある、日頃よりその件に関しましては誠に申し訳ござい土下座ません)。

と同時に、その瞬間とき哀しい予感をも感じていた。
目前のこの青年にもまた、近しい存在の物質的喪失感の渦が訪れ、それを通過することになるのかもしれない。何故なら彼の発した言葉のニュアンスの中に、彼のCOREタマシイ?が成長と拡大のためにその試練ゲームを望んでいるような気配を、ごくわずかにだが感じて取ってしまったのだ。
しかし言うまでもなくすぐに起こると確定した事ではないし(間近で見る事になるかどうかは別にしていずれはこれも全員みんな通過する工程プロセスであるし)、それが起きても起きなくてもそれは彼自身の問題であるに、わたしは心のなかでそっと(でもつよく)
『いつかそれが起きてしまった時には、彼がその波を正しく受け止め、くるしくても最後には必ず乗り越えられますように』と、
祈りによって、その先の思考を遮断し中断させた。


(祈りというのはスポーツ観戦時の声援のように、波動として届くようにできているのだ。伝わったかどうかや結果にとらわれてれて、早計に悲しくなったりいたずらに落ち込んだりしてはならない。「波動」という言葉ガイネンについては1997〜2011年の間、自分なりに研究して一旦の回答で帰結させてある。中島美嘉さん激似であった友人Mに「好きな言葉おしえて。小さい頃にサイン帳とかに書いたたぐいのやつ。ことわざとかさ!」と尋ねた際に出て来た「すべてのものには波動がある、かな」とのご回答ヒントから、波動についての私的考察は一時閉幕中である。)


ギターの腕でだけでなく類稀たぐいまれな歌声をも持っている彼とのそのあとの会話では、わたしは10歳程年長であるせいかお酒のせいか少々先輩づらをして「今んとこのひとまずの目標はどこらへんなの?」とニヤニヤした調子で訊いてみたりして、彼はまたしても少し考え、
「今はとりあえず、
メンバー全員がバイトとかしないで音楽活動だけで食ってけるとこまで(活動の水準を)持ってきひきあげたいね」
と答えたりしていた。
『そうだった、愛情深い親切な側面を秘めているんだったなぁ』と初めて会った日の事が思い起こされる。
初対面なのにとても親切だった(わたしは長っ帳尻なのでめんどくさかったのかもしれない笑 初対面の対応の良いひとは業界を問わず想像力高い。これも断言してもよさそうだ20211023)
時々止まりたがるわたしの心臓のことをよく気にしては、心配してくれたりしていたんだっけ。
この時期わたしは応募した中編程の長さにあたる作品の落選通知を受け取って間もなかった頃で、応募時点で駄作だという手応えしかなかったものの(駄作かどうかは書いていてわかる、そして手応えのあるものはちゃんと金品に... なってきているじゃんか!20211023)
この当時はそれなりに日々の隙間で落ち込んでいた。
意図するところでないだろうが彼の、未来を見据えた芯のある言葉を聴いて勝手に『また(そのうち)がんばろう、わたしも』と、前向きになれたのだ。
(ありがとうね、あなたはメンバーやチームにとっても頼もしいキャプテンなんだろうと思います。)

「 帰る前に一枚撮っていー?」
「 ちょっと...、勝手にSNSとか... 」
「 わーってるってわーってるって、単なる記念!」
( ほんとに大丈夫かよこいつ... )って表情かおで彼は、タバコを片手にいぶかしんでいる様子でひとりで写っている笑。
(今後とも、更なるご活躍を願い続けておりますyo)

たのしい時間はあっという間に経過し、
またねSee youー!」だとか言い合ってわたし達は分かれ、
彼は映画館へと向かった。
わたしは(この頃にはまだその確信に至っていない)この世界唯一無二にして最愛となるひとの元へ小走りに、駅前へ向かい雨のなかを駆け出した。

その街に降り立った時に舞い始めていたミゾレは雪へ変わろうとしていて、傘の花があちこちに咲いていた。
2017年12月13日の事である。






わたし自身が死について初めて熟考したのが1988年で、そののち1998年423日に祖母が他界する。



1997年(平成9年)日本では、臓器提供に関する法律が制定・施行された。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/zouki_ishoku/gaiyo.html

そういえば臓器提供意思カードはいつの頃から保険証の裏に転記される形でその存在を残し、わたしが初めてそれを手にした時の黄色い(独立した)カードは無くなったようだった。


祖母は47歳で直腸癌によりstoma人工肛門をその身体に増設し、大腸に転移、子宮がん、胃がん、それぞれを開腹手術により通過し(もっとあったかも、こうも身体にメスを入れたというヒトをわたしは今のところ祖母以外に見聞きしたことはない)、わたしが彼女の人生に登場したのは彼女が60歳になって以降の事だが、それ以前から数えてみても中々な数の外科施術を受けており、わたしは主に中学生の頃からその闘い(便宜上こう書くが彼女は闘ってはいなかった、彼女の当時の言行から、彼女の精神タマシイはその身に起きている事象の全てを受け止め、死が近づくにつれては受け入れていく様に変移していったそのさま)を見つめていた。
彼女はよく「身体はカリモノだ」と口にした。
この『かりもの』に当たる字が『借り物』であったのか『仮もの』だったかは今となっては確かめようはないが(大体わたしが書くことはどれも確かめようのない事ばかりではありますが笑)、今のところ後者なのではないかと目測を立てている。


1995年、高校に進学した際クラスメートが自己紹介で「献血が趣味」だと発表し笑いをかっさらっていたが(わたしも笑った、彼はビートルズが好きだとも語った。またこの時、同クラスの女子の一人に
「かぶってしまうのですがわたしも趣味は献血です」と言ったAも居た、彼女の将来の夢は保育士さんだった。(わたしは夢の話を聞くのが好きで、何歳の他人が相手でも慣れ親しんでチャンスさえあればいまだに尋ねる、「夢なんて言う歳じゃない」とかつまんない事いうのが多い年代は40〜65歳あたりで、けれどこれはお決まりの会話導入工程であったり照れから来る素振りな事も多いため関係性にもよるがめげずに探ってみる。夢を語る人間の表情はとてもいいものだ。その周辺の波動も整って、ほんわかとふんわりと平和になる。時々勝手に意味を取り違えて「夢」ではなく途中から「野望」を語り出してなぜか勝手に怒ってしまうヒトもいるが、基本的に夢の話は、聞く方も話す方も平和になる。なので、わたしは夢の話に貪欲になってしまう事が多い。街の通りすがりなんかに会話が弾んだ方であるとか、入院中の同フロアともだちだとかシーンや男女の別問わず、大体「将来の夢」の話はほとんどの場合どんな方も、照れながらも愉しそうに話してくださる。この照れてる感じも大好物なのだ。これまでのところ質問した対象者は3歳〜82歳あたりだが、皆さまとても楽しそうに語ってくださる。Aさんも、優しい保育士さんになったんだろうな〜)

クラスメイトたちのその話を聞いて、
わたしも即座に彼ら献血を真似したいと思った。
1990年以降から視覚を持たない方に何かできないものかと考え始めた事から派生して骨髄バンク登録についても興味があったため身体の提供というものの入り口として、まずは献血だろうなとも薄ぼんやりとイメージしていた。
彼らのこの自己紹介は、行動へ移す良い契機きっかけだった。(「〜してあげた」という表現が昔から嫌いで嫌いで仕方ないのだが、他に何かスッと意味の通る、替わりの述語はないものかな... 。前後の文脈にも寄るが、単独でこの述語を切り取った場合に、ある種の傲慢さを感じさせて口語においても「言い方わるいけどさ」の枕詞とセットでなければ使ってきていない。怒ってる時は除)


彼らの自己紹介から数週間内の事だったと思う。
高校の帰り道の駅構内近く、出口付近に旗を持ち、
「ご協力をおねがいしまぁーす!」と言う女性のを耳が拾った(どうやって拾ったというのだろう?一人の時には話しかけられても気づけない程の音量で常に音楽を聴きながら歩いていたというのに?)。
献血の協力依頼アナウンスだった。
その団体(数名)のすぐ傍にはワゴン車が止まり、協力に応じたヒト達も視界にまった。
『キタキタキタキタ、献血のチャンスや!
 わたしの初・献血体験!!』
わたしは採血のたびに意識が遠のく体質でもあったが、若かったのもありその場の医療従事者への配慮(採血・献血で身体的トラブル徐脈・心停止が起きる体質であるとの事前申告)を大いに怠り、『行ったろLet's go!!』と、意気揚々と旗を持つ数名のヒト達の元へ「すみません、献血をしたいのですけど。(きちんと最後まで、お願いできますでしょうかを付けましょう。この頃はまだこういうところが弱かった、頭で理解に及んでいても常に習慣に定着させ切れていなかった)」と果敢に突っ込んだ。
どきどきしていた。
近づいてみると、「O型の血液が不足しています」という立て看板の文字が目に入る。
『 O型ディスティニ〜☆....!! 』(筆者はO型プラス)


献血をしたい!!の動機の裏にはもうひとつの理由が存在していた(動機は、在る場合caseには4〜7個ある、ない場合には全て『何となく直観』だ。意外と『何となく』に紐づく選択の方が後々のちのちに正解だったりするから人生は不思議だ。しかしこれはわたし独自の話でありわたしには成功を目的としていないふしがあるようなので(これは多数の他者からのご指摘によって浮き彫りになり認めざるを得ない事になった、あわよくば成功も欲しいが確かに最優先事項には該当しない)、成功というものを目指す方々にはマジョリティーにそくし動機は表明できる一つにしぼるように勧め、直感で物事を選択・決定する事はこれまでのところ基本的には推奨してきていない2021  わたしが9歳から集めて歩いているのはお墓の中にまで持ってゆけそうな、自分にしか価値を確かめる事は出来ない、オリジナルな「成果」の粒なのだ。万人に共通するところの成功を求める者にはわたしがnoteここに書く物は何のヒントにもなり得ないかもしれない)。

祖母が、わたしの生前の手術について語ってくれた内容の中に、

「実子の一人である者の同級生(高校生)たちが輸血に駆けつけてくれ、夜半に血を分けてもらった事がある、その後の人生でも輸血は度々経験する事となったが、
若者の血管から直接(と書くのは医学的には語弊があるが)流し込まれた血液のチカラはすごいと感じた、冷凍保存の血液によるそれ輸血とは全く違う感覚があった、提供者の年齢が若いからなのか、はたまた保存された期間の有無が大きいのか、とにかく凄まじいエネルギーを感じたし、殊更ことさら有り難かった」
(彼女は楚々そそとしたたたずまいの女性であったのがこの話については熱っぽく何回か繰り返し話してくれていた)

と、その感触と感動についての話があり、わたしの頭にも印象づよく残っていたので自分が高校生の期間内にぜひわたしもそれ献血に参加してみたかったのだ。
結果は残念なことに事前の問診NGで、わたしはワゴンにすら乗せてもらえなかった、体重が原因だったような記憶がある(足らなかった)。「お気持ちだけ頂戴いたします」と言わんばかりの、すこし困ったふうな笑顔を見せた当時の女性看護師の方の表情が浮かんでしまう。やるせない結果だった。
献血については、諦めがわるいのでその後27までの期間に3回再挑戦したが、18の時には不整脈(徐脈・洞性不整脈)について指摘されており、全体的に丈夫でなかったので(こう書くと「成長課程に何か不幸な生い立ちをお持ちなのでは...?」と口に出して言ってきたやつもいるので思い出して腹が立つ。余計なお世話にも程がある、幸か不幸はわたしが決める。わたしにしか決められない)、高校卒後のリトライ3回も挑戦むなしく、血圧だとか基本体重だとかで血を採っていただけることはこれまでのところ一度もなかった(1997−2021)。


わたしには「旗」を掲げる者に注目してしまう癖がある。各政党の街頭演説から、上述した献血の協力依頼についても然り(そう言えばこの下書き作成中に祭りか?と街で目が留まった先は選挙演説の準備だった、このあたりは石原氏のお膝元ひざもとなのだ20211022)
各種ボランティア団体の活動も例外ではない(宗教とビジネスの臭いがきつい旗は除く)。
勿論それとなく耳で聴く感じがほとんどで、直視する事はレアである。
直視というのはこれが好奇心を主とするものだったとき、何故だか他所よそ(自分以外)から観てとても不躾な眼差しに映るものなのだ(慈愛LOVEを基にする直視は除く、例:応援の眼差し)。
タモリさんが以前どちらかで、「一流の給仕ウェイターは客を正面には視界に捉えない、視野の隅にとらえてほんの少しの動作に即座に反応をして応対してくれるものだ」と教えてくださった事になぞらえて、何となく気に入って、意識的に日常生活に織り込ませてトレーニングいる習慣でもある。なるほど、ウェイターもwaitされるお客側も経験させていただいたが、どうやらこの話は実際に真実っぽかった。この習慣アプリはほんとうに汎用度が高く優秀なアプリで、パッと思いつくだけでも、駅構内や街中でお見かけするベビーカーで奮闘するお母さん達やお足が良くなさそうな方、視覚を持たない方々に介助が必要そうかどうかを識別する際に主に起動されている。また、社内で部下にあたる者の進捗を見る場合にも活用する事が出来る。たぶん学校でも使える!!今はオンライン授業が学習形式の主体かもしれないけれど、。2020-2021)


1997年、わたしは祖母の入院する病棟へ向かうために、新幹線で前述の土地へ降り立った(新幹線にひとりで乗るようになったのは幼稚園からだが、いつ頃からか一人で新幹線移動をしても誰も褒めてくれなくなった笑)。
記憶を辿り(GWじゃない、夏ではない、春でもない気がする)、マフラーをしていたような気もするので、それはたぶん冬のことだったと思われる。
その閑散とした駅の広場で、5〜6名がをいくつも掲げて立っているのが視界に入った。その土地の冬は少し厳しく、1995年春に献血協力を仰いでおられた方々のような覇気はそこに見受けられず、寒さに耐えながらその活動に従事しているのかもしれないと咄嗟とっさに感じた。
さりげなく捉えたかったが、この時にはしっかりと正面から彼らを直視した。献血の春の日のような煩雑とした賑わいもない冬の地方都市だったためか、寒さのせいか、協力依頼のアナウンスは聞こえては来なかった。
わたしはその近くを通るようさりげなく無く進路を変えて歩いていたが、あまり活動は活発ではなかったようでお誘いの声がけも聞こえてくる事はなく、祖母の待つ病院へ急ごうとした。
その瞬間、臓器提供意思に関する活動だと認識できる立てられた看板?が目に留まった。それを見たわたしの身体は考えたり何かを感じるいとまも置かずつかつかと彼らに歩み寄り(高校時分からアルバイトもしていたので、いかなる場合においても「仕事」に対してある種の怠慢たいまんさが見てとれてしまうと少々機嫌が悪くなる年頃でもあった)、「一部、いただけますか」と、ごく手短な言葉でパンフレットを要求した。その長細く3つ折り(いや、二つ折りだったかしら)にされたパンフレットとカードを入手したわたしは、詳しく説明をしたな彼女を置き去りに足早に病棟へと向かう。
立ち止まるには寒すぎる年の瀬近く、わびしい寒空下さむぞらしたの夕方だった。


2001年の事だったと思う。(2002年だったかなー)
わたしには少し気になる男のひとがいて、彼とふたりだったり彼の友人もまじえてだったり、その頃はよく彼らと遊んでいた(2021年8月13日に泣きながらnote舞台書き遊び始めてからどれを読み返してみても本当に述語が遊んでいた、ばっかだな... )。
彼らはとてもエスコートが上手だった。(こう書くとさもわたしがレディかのように響くがわたしは野生児なので、天候や連れていってくれるお店のドレスコードのようなものやTPOにも気が回りきらず粗野なのでいずれの場面シーンにおいても恥ずかしさと共に記憶は思い起こされる、。)
彼や彼の友人たちは、首都圏の海近くの街に住む人達だった。
その街には寺院が多く、中校生時分から京都が好きだったりお寺の多い街が好きだったわたしには、彼らの街に招かれる事自体がもうそれだけで、うきうき案件だったのもある。バレー観劇であったりお相撲の千秋楽の観戦であったり、色々お誘いくださったような記憶があるがわたしはそれと気がつかず交友関係が広かったので(これも複数の他者がご指摘くださらない事には気がつけなかった、2003年頃にそうだなと認めた。人ところにとどまれない性質なのは認知自覚していたが、他者よそから観ればそのように表現する事もできるのだなと、物は言いようだなと感心した)、多数あるお誘いの中のいくつかだったのでお寺と映画にだけ反応して車に乗った。彼らはわたしのひとつ上の学年の男の子達だった。Dは運転がとても上手だった。

ある夜、わたしとA(気になるひとDの仲間内の一人)はお酒を飲んでいた。
Aと二人きりで話をするのはこの時が初めてで、状況にすこし戸惑っているわたしにAはしばらく黙した時間を置き、ゆっくりと話し始めた(この人達はそういえばテンポが全体的にゆっくりとゆったりとした方々であった気がする、今思い返すと到底23歳とは思えない落ち着きだ。そしてわたしは今もその時もとても子供じみている、)。
「まいちゃんとは一度ゆっくり話してみたかったんだけど、まいちゃんはDのお気に入りだからさ」とAは切り出した。わたしたちはテーブルに向かい並んで座っていて、Aはどこかしら深刻そうな雰囲気を携えて見えた。わたしの方を見ながらか、テーブルへ身体を向けた姿勢での語り出しだったか、どちらか思い出せない。
こういう空気感が気取けどられる時、人間ニンゲンは大体、とても軽くはこたえられない話をし始める事を経験上わかっている。幼い頃から、かなり目上にあたる親族がわたしの答えられない話を語り出すことが割とあり(これは大叔母にあたる人がいちばんに思い浮かぶ)、そういった時の空気に似ているのだ。
Aについてわたしが知っている情報は、お父さまが画家であることくらいだった。そして確か、育った家庭環境にわたしのそれと類似点があった事、また、ジャーナリストとして活動しているともDから聞いていた。
彼らが互いに当人のいないところで友人のことを話す時、それらは愛情深く胸に響いた。わたしはその表情を見るのも好きだった。
ひと段落おしゃべりをした後の事だったように思う。
Aの本題は始まり、内容はこうだった。

「すぐにでもアフガン入りしたいんだけど... 、飛行機に乗るための書類に親のサインが必要なんだよね」
アフガニスタン紛争(2001年)


2001年9月11日にアメリカ合衆国で起こった同時多発テロの映像は、今もはっきりと憶えている(やはり学者の方々のおっしゃる通り、視覚からインプットされる情報は記憶としてつよいのだ残りやすい、これは世代毎に変異する性質のものかもしれない1998〜20211022・41歳と約11ヶ月現在)。
わたしの一方の親は映画と音楽をこよなく愛するひとで、わたしは幼い頃から映画をよく観ていた。映画館はいつもとくべつな空間だった(お寺や神社や教会と等しく神聖な場所だ)。観た作品映画の中には、今のコドモ達の目には触れないようにされている少しショッキングな映像を含むものも多数、まだこの頃はあった(映倫の定めたるR15+が映画業界に行き渡るのは1998年5月以降、筆者は1979年生。【関連 】:PG12これは劇場版 鬼滅の刃に振られていたのが記憶に新しい2020)。
WTCに飛行機が、そのビルの脇腹に突っ込み大破した映像とそれを伝える報道者の声の、普段通常時とは異なった様相は、過去に目にしたどんな戦争映画より秀逸に仕上がった映像作品のようで、今も脳裏を離れない。きっと探せば、この指を数秒動かせばすぐに、この時の動画はインターネット上に見つかるだろうが、これ以降に書く内容のその場面シーンについて、わたしには再生する必要がない(ほとんどの記事を号泣しながら書いているが、誰に頼まれた訳でもないのにこの数行を書くため思い起こしたこの当時の脳内再生は3.11の時と同じ程の精神的ダメージだ。なぜこんな事が起こるのだろう、なぜ起こり続けるのか。これらに対する腑に落ちる答えを得られるのであればわたしは二度とこんなに泣く必要がなくなるし、書かないでも生きていけるかもしれない、なんで?何故なの)。
この映像は、ひろしまのピカを読んだ小学生の頃の衝撃ととても似ていた。
かわいそうなぞうを実写ドラマ化した単発の番組を観て、象の花子(ワンリー、トンキーという子も居た)も飼育員もかわいそうで耐えられずに思い出しては泣きながらなぜこのような事が起きているのかをひつこく聞き回ってた時の憤慨とも似ていた。(過去に起きた事だが同様のことは起きているに決まっているという確信と絶望が胸を痛いくらいに締めつけた、。)
フランダースの犬で、ネロ(そうか、パトラッシュしか名前を憶えていなかったけれど少年の名はネロだった、実家の長女ねこの名前と同じだこの事を忘れていたのに別の由来からわたしは音絽寝ろと名付けた、彼女は高潔で自己管理能力も高いが赤ちゃんの頃から少々口やかましいところがあるのだ、黒部分の多いパンダ猫だったのでneroでちょうどいいと思った)少年が教会でパトラッシュと抱き合った最期さいごを観た時の感触とも似ている。
田中正造氏が同胞たる政治家なかまからは看取られず、淋しげで寒そうなひもじい家屋かおくで亡くなった時のいきどおりにも似ている。(追:やっぱりもう自我が発生して以来、この視座に主観を置くと、自分内省世の中外界も、なにもかも全部がむかつく。だれもわるくない、いけないのは誤作動の起こるシステム社会構造だ2014確定)


なぜ争いやいさかいはどこででも絶えないのか。
いつになったらこの謎の答えが得られるのか。
わたしは笑って暮らしながらも、
この答えを探し続けるだろう。
(たぶん子供のほうが、たった一言で真理に限りなく近い回答をくれるんだよなー。けど幼い子からは「戦争」という言葉を遠ざけてお育てになるご家庭の方が圧倒的多数なんかなー、こればかりは手ごたえのない想像にしか辿りつけない)
9歳以降人生の折々で、くりかえしこの答えを探し続けるためにわたしは数々のひとの気持ちを踏みにじって傷つけながら、時に気づかないふりをして、泣きながら繰り返し自分に問い続け、その都度毎つどごとに諦めて手放してきたものがいくつもあるのだ。
そのようなものはこの世界のどこにもありはしないとかいじわるな事を言うヒトがたまにいるのだがそのようなヒトの話は頭3分くらいだけ聞いて無視して(シニカルな意見とは別に「いじわる」ばかりを言うヒトの話は最後まで聞いてみても全体的に結局あんまおもしろくないの場合が多いのだ)ずっとこの謎の答えについて考え続ける。
ヒントを探し続ける。(だけど面白くなさそうな一見いじわるそうに思えた人もこのヒントを実は隠し持っていたりするから注意せねばならない、ほんと人生っておもろいよなぁ)

答えは出なくとも争いやいさかい(国家間に限らない)が起きないように働きかける有効・確実なアプローチ法確定している。
「争い」の対極に該当する行動を続ける事がそれだ。
これ以外にない。
闇の色が黒く深くとても晴れそうにないのであれば、光つよく闇を霧散させるほどに光る事を、出来うる限り反芻repeatしておこなってゆくより他ない(やっておられる方々は既に、常にいる東の空から太陽は次々に上がって光っている。もし、読んでくださっている方がいるのなら、いたとするなら、その場合を想定して、はっきりとここに記しておく、これを読んでくださったあなたがもし今、太陽など見えない、そのような事はあり得ないと感じるのなら、あなたは、今は夜にいる太陽だ。あなた太陽なのです。(断言する、そのような事は世迷言よまよいごとだと何千回言われてもそれでもわたしは断言する、黙らなければ首を落とすと言われても言い続ける。綺麗事に酔いしれる夢想者だとどれほど言われただろう、でも黙らない、泣きながらでも繰り返し叫ぶ)
今すぐに(これ、今すぐじゃなくてもいいな。それぞれのタイミングでええやん。筆が乗ってる時はこういう暑苦しさや押しつけがましさが強調されるから、なんだかなぁ【関連】「ぶらり途中下車の旅」故・阿藤快さん(俳優)20211024)
の空から飛び出し昇って(笑って、笑ってよ)、|燦然《さんぜん》と輝く太陽たちに続け(ほら今だって歌ってる、よく聴いて)。ずっとあなたを照らし続けてくれた元々あった太陽のぬくもりも、あなたはきっと憶えているはず。
笑うこと、うたうこと、踊ること、日々感謝、地球他者自分とを丁寧扱い(この3つを同格に扱う様に生きる事は本当に難しい)、瞬間瞬間を真剣生きること。丁寧感じること。人生は無理ゲーだ説はひとまず横に置いておいて(魔界村くらいおもしろいゲームはなかった、難易度が高いゲームはおもしろいのだ人生だって同じ。4人がかりで数十時間かかったなー魔界村の全クリ笑。楽しかったなー愉快だったね、M、Wちゃん、C。)、笑えないような日も泣いてしまうような時にも、誰もそばにいてくれないと感じてしまう夜があったとしても(それはまったくの勘違いで思い違いなんだけど)、地球はいつもいつだってあなたを見つめ(あなたが顔を上げられない時にもあなたを温かく見つめる存在はいつだっている、泣いてもいいから泣いてる時にもきっと忘れないでいて)、
地球あなた愛している
わたしの本能coreは、ここにそう断言する(20201025

オーガニック思考で自分なりに地球大事にしてこ。わたしは2000年あたりから自分や近くの人のストレスにならない程度には続けてきている。できることからコツコツと*


2001.9.11発生以降、各国の報道者は次々に現地入りを果たしていた。
はからずも、拘束されていた同じ国籍を持つ男性ジャーナリストが、大きな鎌のような刀で首を落とされる動画を当時わたしは目にする事になる。
これをわたしに見せたひとは、見るか?とちゃんと尋ねてくれた、わたしは、観たくなかったが(観たい訳がない、けれどわたしは観ない訳にはいかない。今もこれらは起きている)観る事を選択した。
両腕を後ろ手で拘束され膝を着かされ、うつろなをし(保健所に収容され7日目の死を待つさとひとみを持つ犬達のまなざしと似ていた、瞳の奥に、光はわずかにしか感じられない)、この男性が拘束されて何十時間経過していたか思い出せないが、日本政府はアメリカ政府と連携し彼の解放を求める交渉が成されて旨の報道が連日テレビから流され、国内は非常に緊迫した状況ムードにあった。(いうまでもなく筆者はこの時物質的な意味合いにおいて日本列島全体を空の上から眺めていた訳ではないが、たぶん語弊は生じていないと思われる、)彼が拘束を解かれ、生き延びることができた否かはこの時期少なからず、全国民の関心事項トップニュースであったように感じる(もちろん首が落とされる瞬間の映像はどの局も流してはいない)。


紛争の起きている地に他国の者が入ろうとする場合にも、その多くの社会生活上の場面で必要とされるのと同様に、書類手続きが発生する。わたしは高校の先生からの話の影響もあってか、17歳の頃から何とかチベット辺境の地域へ行こうと目論もくろんでおり(仏教のルーツを辿って掘っていった先に興味が沸いたチベット教が在ったというのも理由の一つである。大事な事は隠されていることが多いのだー!)、1998〜2002年の間にどうにかこうにかあの周辺へ乗り込む手段を画策していた時期だった(そういえばチベット話をDには話していたような気もする、それもあってか)。


Aは言葉少なに以下のような事を話してくれた。

「その飛行機に乗るには家族に、もし戦闘機からの攻撃を受けて、乗っている飛行機が落ちて、乗っているひと全員が生きて帰れなかった場合にも、遺族は航空会社を訴えないって書類にサインをしてもらわないとならないんだ」

これを聞いた時はじめて、この夜Aがわたしを呼び出した意味を理解した。

「今晩、これから母親に話そうと思っているんだ」
Aはわたしと同じ一人っ子だった。そして彼の父親は既にご逝去なさっていた。

「その飛行機は、民間機なの?」

「どの飛行機に乗れるかはわからない」


何も言えなかった。
も、何と言えば正解だったか、わからない。
わたしが、17歳(1997年)の時に、臓器提供意思カードの親族欄にサインを求めた時の親の様子が思い起こされる。親はがんとしてサインを承諾OKしてくれなかった(日を変え時を変え何度もだいぶ交渉大喧嘩したが書いてもらえなかったのでむかついて、わたしは学校に出さなくてはならない提出物の保護者欄に書かれた親のサインの筆跡をとことんまで集中して真似て書き写し、常にお財布に入れていた)。
この話をこの夜、Aに話したかどうかは思い出せない。
うちの親はいいとして他所よそさまのお宅の場合caseには別だ。Aはただちに自らの意志に基づき現地へ出航すべきだ、とも、親御さまは勇敢な御子息のご意思を尊重しサインを書かれるべきだとも、わたしなどに言えようはずもない。Aはその答えを求めてわたしを呼び出した訳でない事もわかっていた。(と、きれいにまとめたが一晩明けでひとばんあけで思い出してしまった。
Aはこの晩わたしと会った時点で普段みんなといる時とは様子が違いとても酔っていて、まいちゃんならどうする、と投げかけた。この時はわたしとAは視線だけはしっかりと瞳と瞳を向き合わせていたような気がする。
「まいちゃんなら」と言われてわたしは言葉に詰まった。
「わたしなら」行くために乗せてくれる飛行機見つかったわーい!ラッキー!なので、すぐさま帰って「かれこれこういうわけだから今すぐサインして!」とか言いそうだが、それか了承を得ることが難しそうであれば隠れて事を運びそうだが、この場面シーンには全くそぐわない。やはりわたしは言葉を失った。

だれかに聞いていて欲しいような夜だったんだと思う。

Aとの分かれぎわ、わたしはどんな表情かおをしていたんだろう。21歳のわたしはあの晩、ちゃんと笑顔でAを見送れたのだろうか。思い出せない。
わたしがAと会ったのはそれが最後だった。


Aと分かれたソッコー、たぶんわたしはすぐに友人達(ガールズと男トモダチ、みんな横のつながりは無し)それぞれに伝わる言葉を選び文面を変えてメールを送ったと思う。
そういうやつなのだ。

「ちょっと聞いてよー!Dくんの友達のAくんが、まいちゃんはDのお気に入りって言ってたんだけど!!!!
どうしようー!!(ジタバタ)」ガールズは共に盛り上がって聞いてくれて、
「聞いて、わたしも〇〇くんと... 」だとかの話へ続く。
男トモダチへは「これってどうなの!どう?!」
といった絡みでメールしているはずで、彼らの場合は「お〜、よかったじゃん!」派と、
「また言ってんのかーハイハイ」派がいた。
全員がノリ良く返してくれる訳でない点がメンズっていまいちだよなーと思ってしまう。

わたしはどうも、切り替えが速いらしい。
いつか誰かからも言われた気がする。


1986年6月13日、祖父が癌で他界する。
わたしは6歳だった。
お葬式で悲しみにくれた記憶があまりなく、檀家だんかさんも総出で大きな式となり、ヒトが大勢集まったので、なんだかたのしかったような感触がある。お迎えする準備やらでバタバタとにぎわっており、県をいくつもまたいで弔問にいらっしゃってくださる身の回りのお仕立てやら(故15代目和尚おしょうは警視庁勤務であった為その関係の方々もお越しくださっていた、享年72歳だったので逝くのが同世代より少々早かったのも弔問者数が多かった理由の一つかもしれない)、このお葬式は約1週間で帳簿の最終集計数は968人であったとのちに聞く。(お葬は1回だったが、告別式以降この時期お寺は広く開放され、本堂前の野外広場スペースには運動会の時に校庭に見るような白いテントブースが設置され、親族や関係者が弔問客の記帳受付をしていたのが約1週間の意。遠方からいらっしゃる方には下の家に宿泊していただくこともある。ほとんどの方々は数時間なり本堂内の長細い畳の部屋にある背丈の低い長テーブルで思い出話を語らい合い、日帰りでお帰りになったと思われる)
本山からのお越しのお坊さま方はそれぞれお色の異なるお召し物をまとおごそかな風格で次々と現れで、わたしは(この頃は)しげしげと彼らを観察していた。この方々が控えの間で談笑している時の顔つきと、着替えた後に静々しずしずと歩き出す時のお表情かおつきがガラリと変わるのを興味深く見た記憶がある。『おおお... この廊下に出てからがお仕事なのかな?着替えたら、なのかな??』と観察したりしていた。
とにかく色んな人が色んな所から、色んな車種の車で次々と現れ、年齢も背丈もばらばらに、多くの人がこの小山の山頂近くの中腹に建てられたこじんまりとした寺院という名の少しとくべつな建物たてものに向かって湧いて出たかの様に集まり(それは蟻んこがちょっぴり盛り上がった砂山に集まってゆく様子を思い出させた)、個性いろいろ多種多様ながらも皆黒い服を着ている点は同じなのもおかしくて目を見張った(黒なとこも蟻とおんなじ... !!驚)。
ジェーJ!これ本堂に運んで!」だとか、親族の喪服の着付けのお直しだとか(着付けの際の紐を持っててだとか程度のお手伝い)、
「下の家から湯呑ゆのみ持ってこい!落とすなよ」等(お寺は少しこんもりした程度の山の上にあり、そこから渡り廊下のようなもので結ばれた家があり、外の石段を降った下にもう一軒の家があって普段はその家を居住の拠点としていた)、お声のかからない限りは台所で働く檀家だんかさん方のお手伝いをちょこまかとしていた気がする。ボヤーっと暇そうにしているところを見つかると後で叱られるのだ。檀家だんかさんがたよりも率先して働かないと、その疑いあり!と厳しめの近しい親族の誰かに見つかってしまえば、その晩の夜の食卓で注意されるのだ(わたしはわたしで観察と考察で忙しいというのに)。叱られるのは嫌いだったが、わたしはこの頃から働く事が決して嫌いではなかった。役に立っているという実感はいつでも嬉しい感触のものだった。これはお風呂上がりにさらさらとした良質な素材の衣類の袖に腕をするすると通す時の気持ちよさと似ている。

祖父の告別式の最中さなか確か総代そうだいさん(お寺に近しい立ち位置で支えてくださる、檀家さんの中でも位の高い位置の方々を指す。理事会の監事のようなお役目も担っていただいていると認識してきた)の中のお一人がわたしに、
「こんなにも沢山集まって、和尚おしょうさんが立派だった証拠だな?死に目にその人の生き方が出るっていうもんだ。立派だったって証拠だ」と満足げなご様子で微笑んで話しかけてきたが、わたしはその言葉に納得がいかず(気に入らず)たぶんむっつりとした顔で立ち去った。
田中正造はどうなるのだ。田中正造氏は、立派な人だったはずだ。お葬式でその人がどうこうはないはずだ。納得がいかなかった(証拠という言葉も嫌い、法廷だとか研究者でなければそのようなものは証明のしようがない)。

「死」はのこされた者の問題なのだ。見送られる時の華やかさであるとか壮大さだとか、そんな物差し価値観でヒトの一生の優劣など決まるはずはない。(そもそも優劣が古いなーやはり要らない概念だ。4日前に別テキストで、もはや男女の別の表記もパスポートから消えていっていいのに、もうなくなってるかな?と書いたら、米国がそうするらしいってニュースが入ってきた。慶事でしかないが、表現形態にも大きく波及する。悩みながら書いてたし2021)

やはり、一側面から観てみても、「死」は完全にのこされる「がわ」の問題だ。
6歳のわたしが見た祖父じいはもう目を開くことはない、生前より肌色に黄味の増した、かつて祖父じいだった物体だった。そこにはもう、いないのだという事だけは、お通夜つやで「ほら、おじいちゃんにお別れをなさい」と言われ火葬場へ出立する前の遺体の顔を観た時にわかった(これがわたしの人間の遺体直視デビュー)。この時に思っていた事は、見る前「白いあの三角の布おでこに付いてるのかな... 」と、見てる時「もうおじいちゃんに抱っこしてもらってはしゃいで遊んだ時間はとうとう二度と来ないんだ、ここにはもういないんだな。この口が動いてわたしの名を呼んでくれる事はもうないんだ(生前に別れの際にあんなにも恐れて泣いたその瞬間が実際に来てみるとこんなものか、という妙にスンとした気持ちの感触も残っている)」と、見た後「ほんもののおじいちゃんはここにもう居ないなら、今はどこにいるんだろ?」だった。
脳内で言葉になるところフェーズまで上がって来ている時、わたしは泣かなかった。
(わたしの場合は内観の世界の地層は9層程あって言葉に変容を促せるのは表層面の2〜3層部分のみであり、COREに発生したものそれぞれが表面に露出するまでの経過に要する時間もばらばらだ。わたしは大雑把にテキトーにカウントしたところ9だったけれど、みんな何層くらいあるのだろう。わくわくする妄想)

6月の空はどんよりと湿しめり、色も暗かった。
本堂のあちこちの扉は開放されていて、本尊のある、北側背面以外の三方からは梅雨の匂いがなだれ込み、お葬式特有の雰囲気の演出に一役買っていた。
小さな黄色い蝶がどこからか舞い込み、読経の最中さなか、どこへゆくともなく宙をまたたいて泳いだ。わたしはしばらくそれを目で追った。色のない風景の中でそれはその時、唯一の色を放つ。わたしの他に其処には、その黄色に着目している素振りの者は見受けられなかった。その事はわたしを少し不安にさせたが、その晩のお酒の席で、生前の祖父と特に近しい間柄であったらしき僧侶が大人達の談笑の中でその蝶の話をしたのでわたしは安心した。
「はて、しかし、あの黄色い蝶はこの時期の蝶ではなかったはずだがなぁ」
誰かがそう言っていた。


お葬式の中のでり行われる読経中どっきょうちゅうの一連の所作、数十人の僧侶が読経をしながら規則だって舞う姿は(総持寺そうじじなどでも観られると思う、2009年あたりに後輩のOさんと行った時が観音様の日でたまたま遭遇した、また観たいなー)、学校のマスゲームをやわらかく流れるように優美におこなうような、観ていて飽きない心地の良いSHOWだった。
彼らは動作に音を立てないので、低音で抑揚のない読経の声が延々と続く短調な音律の中、動きに合わせて着物の裾が堂の床を擦る音が揃って聴こえる。お寺の外では時々、野鳥がさえずるを鳴らす。すすり泣く声も時々聴こえる。
6歳の自分がこの場面でどのように振る舞っていたかよく憶えていない。「長時間の正座きつい、けれどもきつい感を垣間見せてはならない... !」だけは憶えている(やはり「痛み」に関連する記憶は色濃く残るっぽい)。この寺院には1990年頃から唐突に、本堂の壁側の一部にソファが置かれる仕様に変貌した。
16代目の辞書感性に「風情ふぜい」という文字はないのだ。わたしの辞書にそれはちょっとあるので残念だったけれど、これも16代目の個性なので仕方ない。正座(法要関連の際にする正座は出家していない在家ざいけの者の行う「禅」の簡易姿勢なのだ。)の姿勢がきついのは子供だけではないので、「禅」の姿勢を解いたその後にくつろげるスペースを用意したい、との発案だそうなので、反対意見を挟む余地もない。

お坊さま方のおこな所作しょさの中で特に好きな、素敵な動作がある。
それは3度繰り返し(確か3回1セット)本尊ほんぞん(主祭神とその両脇に控える神の意。寺院ごとに異なるがこの家のお寺は確か正面に向かって3体だったような... )と本尊前に置かれた祖父の遺影に向かい、直立の姿勢で頭上高いところで合わせた手を合わせたまま下げ、合わせた両手が胸元まで下された時にその一連の流れそのままに正座の姿勢になり、正座からおでこと両のてのひらを床にしっかりとつけたのち、おでこは床に付けたまま、両手のひらを離してうえへ向け耳の横辺りに持ってゆき、両手を静かにゆっくりと上へ水平のままおごそかに上げる所作しょさだ。
それは、「地平」よりも深く頭を下げて敬意を示す意味を持つ表現だそうで(両手で地平線を頭上より高く高く上へ押し上げる)、お坊さまがたのやり方をそれぞれ比較しながらわたしは眺めた。手のひらをやや丸めた感じで上へやる者、胸元から耳横へ開いた手を持ってゆく流れを丁寧に行う者、他のおかたより強めに床におでこを押しあてていそうな雰囲気の者。
人の数だけそのパントマイムのかたがあった。
今思い起こしてもわたしはこの動作がとても好きだ。
繰り返し思い起こしてしまう。
フィギュアスケート元金メダリスト・荒川静香さんビールマンスピンくらいに好きだ。なんで好きかは書けない、たぶん人間ヒトは「嫌い」には、かれこれこういう理由で嫌いなんだ!といくつも嫌いな理由をあげる事ができるが、「好き」に理由なんかない。好きだから好きなのだ。(あー... 、ここのとこ「なのだ」めちゃ気に入っちゃってる、バカボンみたい)

お坊さま方が式でなさる一連の動きは、団体競技のマスゲームのように揃っていて乱れることもなく、心地良いの記憶だ。たまに参列者の中の赤ちゃんが泣く。この頃はまだ、厳粛な場で子を泣かすままにするのは非常識だムード満載の昭和(後期)感が所々ところどころにあり、しばらくあやしても絶叫レベルの鳴きっぷりな場合には親御さまはスッと離席なされ、赤子の元気な泣き声は本堂外へ移動した。わたしはというと幼い頃にはほとんど泣かない子で(元気なかったんかしら)、空腹時とおむつの具合のわるい時にだけ少しぐずって知らせるのみでそれ以外には派手に頭を打って転んでも起き上がった後にすぐニッと笑う子だったと聞いていたのもあり、自分とは違うパターンの赤ちゃんに興味を持っていた。
兄弟がいないと、家庭内に自分との比較対象の同世代が存在しないので(例外はあるだろうが)、他所よその子が、自分もコドモの時分から特に気にかかる思考体系だった気がする。(一人っ子に関しては後に公開するつもりの「長子」のコンテ記事ンツ内で少し触れるが、人間ヒト界では「不在」を人生における「欠落」と定義付けて疑わないヒトの多いように感じるが(表向きだけかな?そうならいい)、「不在」こそが、人生における最も有用たるアドバンテージである。祖母にそう答えた場面の記憶がはっきりある。
もっと言えば、「欠落」でさえ、アドバンテージである(あー長かった、1988年に仮説として思いついたところから一文に出来るまで、本当長かった。やっと言えた。何なら欠落こそかもしれない。持たざる者の苦悩や葛藤と等しく持つ者の、より深い苦悩葛藤を聴かせていただく事が多々あったために断定できる事項かもしれない。1990年に視覚を持たない方々は五感の一部が欠如しているために別の機関が特化しているに違いない、または失なう事を経て別の何かを獲得するに違いない!と閃き、その後ボランティア等を通じて自己の中で断定したのがきっかけだった。以降は方々ほうぼうで道すがら、口語では結構そう主張させていただいてきた。これが真実かは判らないが、わたしの中枢本部はそれでいいという。欠落は望んで得られるものでないという点において、いかなる充足感とも等しく同じだと断言する。2021年10月29日


わたしがこの家に滞在中(幼稚園年中さんまで)、祖父は僧侶そうりょとしてのお勤め時、袈裟けさの上からわたしをおんぶ紐でおぶってバイク(本多のスーパーカブ)で檀家だんかさんのお宅を回っていた。(お寺の繁忙はんぼう期は春秋のお彼岸ひがんとお盆と年末年始、シーズンオフは個別にうけたまる法要関連業務。お医者と同じで唐突に呼ばれる事案も勿論発生する)
ご近所の方々は「どれだけかわいいものかねぇ、あの坊さまがねぇ」と噂したと聞く。
この頃(1984年)、この辺りはまだ道の舗装も整ってはいなかったので、田畑たはたの脇道を通る時や、砂利道の途中にある大きめの石をタイヤが踏み越す時、段差になっている箇所を通る時、わたしたちの身体はカブの座席から少し浮いて一緒にはずんだ。
生まれて初めて憶えて唄った歌は確か一小節しか歌えてなかったが、男性演歌歌手の歌だった。題名は今も思い出せないが「北の酒場通りには長い髪の女が似合う」という歌詞だ。環境的背景からかおっちょこちょいだからか、唄う時いつも「酒場」のところを「墓場」で唄っていた。わたしの置かれた家庭では胎教音楽だとかいう概念に基づきお腹の中にいる間わたしに向けてモーツァルト・ビートルズ・サザンオールスターズをおもだって聴かせ続けたらしいのだが、産まれてきたわたしが歌ったのは最初の歌は演歌だった。(ショパンが好みです、モーツアルトとサザンとビートルズの好き度合いはふつうです)
カブ走行中、の音に負けないように、声を張り上げて歌った記憶がある(一体なんの宣伝なんだ、墓場にも髪の長い女は確かに似合うので文脈的には何らあやまりは生じていないが歌詞内容を想像するとただのホラーだ笑)。祖父の法衣ほうえの裾が、風を受けてバサバサと音を立てていた。
わたしは彼にとって4番目の孫だったが、文字通り目に入れても痛くない程に溺愛されたそうだ。この頃はまだ「比較あそび」を憶える前で、祖父とは仲良しで気も合ったしわたしも親族の中で一番大好きだったが、「溺された」感触についての実感は正直なところわからない。(愛についてはわからない、言葉にならないくらいでちょうどいい。言葉にならないくらいが、ちょうどいい。)

祖父はこちらを見遣みやる時、いつも目を細めて笑っていた。
没後に親族や近隣に住む檀家だんかさん方は、わたしが産まれてからそのような表情になったと口々に伝えてくれた。この話は中学・高校時あたりになりこの祖父の7回忌法要だとか13回忌だとかで帰省した折折に皆さま方が教えてくださった。
祖父は警視庁で勤め上げたのち、その晩年には町役場まちやくば天下あまくだり公務員として勤務しつつ僧侶活動を行なっていて、二時大戦では朝鮮戦争から出動参戦しただとかも聞いていた(一般の市民よりも出兵命令を受けて動くのが早い)。
この家には誰が撮ったのか不明だがモノクローム白黒の写真が多数丁寧にアルバム管理保管されており、「軍」の一部である「隊」の出兵時の整列集合写真や彼らの素朴な、その歳相応らしいの、愉しげなふんどし姿での和気藹々あいあいとした水辺での水浴び姿とうを見る事ができ、『ははぁなるほど軍隊上がりで厳格極まる人物像やら、笑顔も見せないような人だったとも耳にしたし、イメージの落差ギャップがすごかったんだな」と考察させられた。そのきっかけが「わたし」だった事は今でも何だかふしぎな感じがしてならないが、このような事を想像する時わたしは「」について深く興味をいだき始めるようになる(高校生時分1996年あたり〜)。
31歳あたりの頃に職場仲間と談笑している際にそれとなく子供を欲しいと思うことがあるかと訊かれる話になった際、子供いいのだがどちらかと言えばわたしは孫の方が欲しいと言及した。「や、子供も可愛いとは聞きますけど実際幼なじみの子とかほんとかわいいんですけど(ここで如何にその子が可愛いかプレゼンが入るのでわたしの話はすぐに本題から脱線する)、なんか聞くところによると、どうやらはもっとかわいいらしいんですよ... 色んな人に根掘り葉掘り聞かせてもらってきてるんですが、めちゃかわいいらしいんですよね」と話の続きを真剣に説明したが、聞いている人は身をよじる程にお腹を押さえて笑うだけで共に考察を続けてくれる流れにはならない事がほとんどだった。関連のお話を聞かせてくださった方々のご様子を想起している時に視線を上にやっている隙に、視線を会話相手と同じ高さに戻す頃には、気がつくとみんなうつむいてたり既に爆笑を開始している。
この話に限らず、わたしが真剣なら真剣な時に程、皆よく笑うのだ。
いまだに孫の可愛さについては未知数なところはあるのだが(未体験)、目の前にいるヒトが笑う時、疑問に思う興味の向かう先の答えはほとんどの場合どうでも良くなってゆき、笑いはすぐに還元され、わたしにも伝染する。


19歳あたり(1999年)から子供は将来何人欲しいだとかの話題が上がるようになり、結婚願望の有無について、20以降は特に訊かれる事が特に増える。うんざりするほど聞かれたが、こちとら9歳から考え続けてきているのでYes/Noのシンプルアンサーでなど出ないし、「わからない」だとか正直に答えれば期待的余白を残すことになるらしく、後々に面倒なことになった(これもマンツーマンで後学として聞かせて欲しいといったものなら全然構わないのだけれど)。また「わからない」回答は場合シーンによっては女子から疎まれる事案も発生し、結果、回答に困ってしまう。真剣に訊かれた場合にはどう答えても大体面倒なことになるのが大半で、この質問が30回あたりに及ぶ20代初めからはイライラするようになっていった。訊かれすぎてもう、訳わかんなくなるのだ。「このうんざりする面白くもない質問を回避するには結婚をしてしまえばいいのか!」と途中(33〜34くらい?)閃くが、それを友人らに話すと「そのような動機ならここで残念なお知らせがあります、結婚をしたらしたで別の種類のうんざりする質問はてんこ盛りです」と、その内容についての報告が次々に上がった。
結婚は子を産んで育てる事がわたしにとっての定義であったが、17の時には『家系図見たら女系家族な上に男の子産まれても短命だったり、わたしも男子産めないっぽい... 嫁失格かもしれない... 』と1年程真剣に悩み、ある日何かの話の流れから、友達(♂)に打ち明けたら「いつの時代の女なんだよ」と相当笑われた。「ちょっと!笑い事じゃなくて真剣に聞いてよ、やっぱり嫁のおつとめとしては男の子産みたいじゃん。だけどどうもわたしって女の子しか産めない気がしちゃうのよ、思い返してみたら自分が小3くらいから子供に名付ける名前の漢字妄想してたけど、思い浮かんでるの女の子の名前ばっかだったし、これって潜在意識がキャッチして何か示唆してる暗示っぽくない?」バスがもう到着するのに、「だから、、いつの時代の女なんだよ、戦国時代の何か読んだ直後か?大奥の女か?お前。平成だぞ今、腹痛い... 」と友達は道の途中で止まってしまったのでわたしたちはバスを1本逃すことになった。話せば話すほど、笑われた。でもいいのだ。笑いが続けば途中からお題はどうでもよくなる。というか、わたしが考えている類の事は大体どうでもいい事が多いのだ。
N、大声で笑ってたなー。あの日の帰り、空は青くて晴れていた。この頃はまだその約10年後「2組に1組は不妊カップル」などという言葉が闊歩かっぽする悩ましい時代が到来しているとは露とも知らず呑気なものである。(否、あるニュースを発端に24の時その兆候サインには気がついていたかな... )
そもそももってわたしは「約束」ができないのだ、何故なら明日生きていないかもしれないからである(→このverseのあたまへ戻る)。脳から心臓への電気信号系統の不備による心停止のデータを突きつけらて以降、また起こるかもしれない身体マシンの持ち主なのだと自覚してからはますますこの意識は強まった。突然死の可能性がある身で所帯を築くのは、相手や、もしかしてこの身体を通ってこの世界に発生して来てくれるかもしれない新しい命に対して申し訳なく、想像をしづらくなっていった事も一因である。


2018年夏頃、地元友人の一人Tからメールが入った。
2010年(くらいだったかな?)以降は各種連絡はLINEを好んでいたが、同世代や、何かこだわりがあってガラケーからの移行のままに、LINEではなく「メール」での連絡を好む友人も多く、彼はそのTypeだった。
そういえば久しぶりだな、と感じたのを憶えている。
この頃わたしは仕事に忙しく、シンプルに業務にだけ集中したいところ意図せず社内政治紛争にも巻き込まれかかっていて大変な時期だった(大変じゃない時期なんかないんだけど)。Tからの連絡の頻度が減っていた事に、『お!久しぶりじゃん。そういやちょっと前に複数持っていたデバイスをこのスマホ1個に絞ったから移行はこのメアドのみ生きてるって言ってたなー』と、この日初めて気がついた。
Tとわたしは喧嘩して1年半くらい口を聞かなかった時期もあるが、18で出会って以来なんとはなしにずっと仲がよかった。わたしは幼い時分より兎にも角にも『兄弟が欲しい』が口癖だったが、ふと思えば様々さまざまな方々が半生の折々で助けてくださり『血縁があってもなくても、兄弟や姉妹のような友人が、いつも誰かはそばにいてくれたな』とふと思う時期を27あたりで迎え、このような事を思い返す時、主役級の存在感を放ち記憶に度々登場してくるのがTである。
Tとわたしは同い歳で、もう一人、彼の高校の同級生である別のTとわたし達はよく一緒に遊び、よく語らい合った。3人の時も2人の時も、流れる時間に何の遜色もなかったし、この2人とわたしで恋愛関係になった事もない。彼らの結婚式にもわたしはちゃんと招いていただいている(あれ?式からだったのは片方だけだったかな?)。

Tとわたしは社会に出た以降にもよく連絡をとっては励まし合った。
他愛ない話や仕事の愚痴だったり、学生時代に散々3人で夜通し語らい合った青い春のような内容に及ぶ事もあったし、日々の隙間をぬっては電話で話した。特に用事がなくても「よう、今へいき?」と気軽にかけ合える間柄だった。このTは30代以降にはわたしに結婚をして欲しいと真剣に語り、わたしは何でも話せる相手なので思うままにその時々の私見を返すのだが、「(おまえの事はわかる的な内容がある)、でも俺はさ『あの頃はああは言ってたけどやっぱり結婚して幸せだったよT』なんて言って子供抱いてるおまえの姿を見たいし、それを想像すると、俺は涙が出そうになるんだよ(わたしに結婚を望む人は多くいたがこうまで熱烈に切望してくださった方はTを含めて数人しか思い浮かばない)」とか繰り返し言ってくるやつで心底余計なお世話なのだが(これも本人にも何度かそう言っている笑)、わたしに対する視点が実兄かのような目線のときが度々あり、基本的には本当にいいやつなのだった。
わたし達は(彼がご結婚してからは主には)遠隔で、とにかくお互いを支え合いつつやってきた。
19の頃Tが長くお付き合いしていたクラシックバレーをしている華奢で色白のうつくしい女の子に別の好きなひとが出来てしまって失恋した時にも、わたしがその後に大好きだった、鬱病を抱え込んでいた男の子に「感情の起伏が烈しいところについていけなくなった(本当おっしゃる通りでうけるけどこの言葉一文は自己静観する時に何度も甦ってつら、、笑)」と言われ生まれて初めての失恋を経験しそれをうまく受け止められなかった間も、Tが結婚について悩んだ時期にも、わたしが職場の人間関係に悩んだ時期にも、性別の異なる友人関係において開示し合える限りのお互いの抱える葛藤や悩みのようなものを都度共有し合い、話し合って、お互いの問題に対する打開点を模索してきた。
ここ近年(2010年以降、30代)はほとんど互いの仕事関連の話が中心で、わたしは社会性が著しく低いため(徹底管理教育されているので常識というアプリは入ってはいるのだがあまり立ち上げないのだ、適宜にしか好んでは使わない)、社会構造上の立ち回りについての私見を聞かせていただく事もあり、だが大体は、相互確認が主だった会話内容で、時に、お互いの恋話コイバナもトッピクスワードだった。
(社会に対しての)意見はこのTとは合致する場合が多く見られ、その意見の一致はお互いを安心させたし、それだけで何とはなしに、その夜が軽くなった。


頻繁に連絡を取り合う時期で週に3回(Tは車で移動中にイヤホンマイクでかけてくる事が多かった)、日に何度も連絡し合う時期があったが、そういえばこの2ヶ月は1度も連絡を取り合ってない。

途中まで話をメールで話を聞いていたが少し深い話のようなので、わたしの時間の取れる時に電話で話したいと申し入れたが、それは出来ないとの事だった。
Tがわたしに携帯スマホを1本に絞る旨、報告を入れてくれた時期に実は、会社を休職したのだという(それを機に仕事用の携帯スマホは解約した)。
彼はこの頃には首都圏においてある分野の顔のような立ち位置におり、その業界の一部を回転させるのに重要な役割を負っていたため、単純に、それほど急に現場を
抜けたとするなら、会社もその穴をすぐに埋めるのは大変だろうと察し、十数年の過去に見た憶えのない彼の口調様子(文体から読解できる)から事の重大さ加減を感じ取った。わたしは驚きを悟られないように出来るだけ注意しながら、事の顛末を彼が話すリズムに任せた。電話ができないのは、自死を試みた所為せいでその後の後遺症により音声を発する事が困難(躊躇されるため)である事、ごく事務的に冷静な口調で告げられた。わたしは普段通りの応対でラリーを続けたと思う。
アカデミックな場で多勢の面前で発表する事も彼の仕事の一部であったため、気易い話し相手(わたし)と電話で話すのにも支障があるようでは今後の苦労が目に見えるようで、わたしは不安に駆られた。その不安が発生していることを彼に気取られないように話す事にだけ、その時は集中したように思う。

メールでの会話チャットが終わった後すぐに、泣いた。
会社帰りの首都圏のホームで、くるしいくらいに泣いた。こらえても、抑えは効かなかった。この時の気持ちは今もうまく言葉にはならない。

それから彼は2年弱ほどの休職期間を置き、専門医療機関での定期的治療、会社との調整を重ね残念ながら復帰には至らず退職をした。会社の産業医との面談前など都度意見を仰がれたためその際には出来得る限り対応し、わたしたちは電話で緻密に打ち合わせをした。(この頃になると彼は徐々に話す事への抵抗感を手放しつつあるフェーズに移行していた)わたしは彼の意思や彼の妻の立場に就く者のご意見を前提としてそれを確認してから話を聞いたが、彼には迷いや恐れがあるように感じ、この事への対処にはとても難しいものがあった。誰にも打ち明けられないごくデリケートな心の内の話に触れているのかもしれず、誰かがそのよう深刻にこちらへ向かって話す時、わたしはその取り扱いに細心の注意を要せねばならなかった。
別の友人が別件のおしゃべりの際にふいにぼやいた「近すぎると支えられないって事もあるもんね」という言葉がまるで、除夜の鐘が打たれた後の余韻のように脳内に轟いて振動をのこし続けている。


Tは長子だった。
Tに限らず、長子で男子という友人は気がつけば周囲に多く、彼らの悩みをお聞かせいただくに(根本を掘ってゆけばアジア圏に多く感じられる「家」に土着される宿命を生まれながらに背負う事に由来するのかと推察された)非常に思い責任感に、意識が紐づけられているようなのだった。これは2009年にふと気が付かされた、わたしたちは昭和後期組だが続々と頼もしく成長を遂げている平成・令和組が社会の多くのシーンで指導的立場に就きこの国を回していく時代が訪れる頃にはこの呪縛から全員が解き放たれ思念上では男女の別もなく(差別は退廃し、区別のみが輪郭だって残り)長子男子のみが背負う宿命に特別に囚われてしまう事のあるらしい重圧が、時代変容の加速と共に更なる化によって完全解放が樹立されていることが望ましいと、そのvisionを想像している。風化は物悲しいけれど美しくもある1999〜2021現在)、今より自由な側面が浮きだっている事を願う。「家」は各家庭や一族の属性colorに寄ってそれを意識させる成育過程の環境の差異は無論あるが(商いを筆頭として、何か公的に代々働きかける立ち位置を担ってきた系譜の者は特に色濃くこれを意識する機会が多く自覚的にならざるを得ないケースが多い、そうでない場合においても同)、主に国家色として、歴史の深い(長い)土壌内での事であるのならば、当人が意識するとせざるとに関わらず、日本色のつよい教育環境下にて育成された「長子たる男子」には潜在的に培われてしまうものカンカクのように感じる。
Tがこのような状況になって初めて、彼に対し『あの時でもあの時でもあの時でも、彼の変調に早めに気が付く事は出来たはずだったのに、』と、通算すれば何百時間にも及ぶだろう会話の時間内で『あれ?』と少し思った違和感を数回は捉えていたにも関わらず見逃し続けてしまった事がくるしかった。また同時に、このような無用な自戒・自責の念を持つことで他者の状況に酔っているのかもしれない自己を冷ややかに見下す別個の自己の介入も煩わしく、心底嫌気がさした。他にもあるがこれらすべてに蓋をして(このように独善的に語ってもわたしもそれと気がつかず彼のを追い詰める発言を過去におしゃべりの中で発したかもしれない、否、わたしの事だからきっとしている。ごめんね、T。)
彼の問題に対し回答を求められる限り、わたしは応対を試みた。(実際のところこれ以前のわたしの方がTに助けられているシーンが多いのです多分)
Tを自死へ向かわせた一因のひとつとして、それまでの会話上の違和感を感じた箇所の根を辿る時「長子たる男子」の要素は一因として無視できそうにない一因だった。(あーあ、自分だけならいざ知らず他者を1サンプルのように脳内で取り扱う自分の思考が人間的にいやらしく感じられて本当に嫌だ、わたしの手は何故こんな事を書くのだろう、)
このような素人の考察は全く役に立たないばかりか時に有害にさえ働くかもしれない事態の発生をわたしは懸念し、また、彼は退院後には自死防止に特化した(精神医の中でも特にその項目を専門としておられる)医師を見つけその専門家に治療を全面的にお任せしているとの報告もあったため、以降わたしは彼との会話上でその治療の障壁ジャマになるかもしれない言葉を極力使用しないよう、距離感にも気をつけながら話すよう強く意識づけた。

それまでよりは連絡の頻度は減っていたが、Tとわたしは連絡を取り合った。
わたしは大体それまでと一切変わらない態度で、いつも通りに自分の職場の愚痴や近況を聞いてもらい、彼は時々、わたしが努めて明るく対応しているのではないかと気を遣う(心配、不安)懸念をほのかに漂わす事もあったが、その一切をわたしは否定した(もしくは流した)。まぁ、何というか、文脈上の矛盾が生じてしまう気もするが彼の指摘を無視したそこに嘘はなく、TはTなのだ。彼を取り巻く状況や環境や、彼の彼に対する信頼が時にぐらぐらに揺らごうとも、わたしにとってTはTのまま何ひとつ変わらないのだという確信が常に在った。それはいつ如何なる彼との二人の対話においても貫いたつもりでいる。
わたしたちの関係性は何でも話せるものであるため、軽いテンポの中で治療にその医師が使用している薬剤名をわたしは情報として収集した。彼の妻は何人目かの子供を身ごもっており、彼女とお腹の子の兄になる長子への影響も頭を掠めたがわたしが働きかけられる範囲外の事である(余計なお世話な)ため、その先は考えないようシャットダウンした(彼女は美しく強く一本芯の通った女性という印象なので大丈夫だとも思った)。わたしはTからHelp Signの出た時にだけ、短期集中的に注力すれば良いと判断した。

ある夕方しばらくの会話ラリーを終えて数時間経過したのちの夜浅い時刻、Tからまたメールが届いた。

「なぁ、地獄ってあると思う?」

このワードが彼の口から出はじめ、彼が休職期間に入る数年前から冗談めかした笑い話に混入していた事を追憶時に気づいていたため、この時分には今度は取りこぼさないよう意を固めていたのを憶えている。
2008年あたり以降から彼は冗談じみた言い回しながらも自己回想を語る際に少しずつ「罪」と「罰」と「地獄」というワードを多く口にするようになっていき、この言葉たちは時間軸の経過と共に右肩上がりに彼の会話上で出演回数を増やして来ていた。

「そんなものはないね。必要もないね。」

わたしはあらためてここで、きっぱりと回答した。
ここまでもここからも細かく刻んだ会話は続いたが、繰り返し訊かれる限りは一貫してわたしは持論を強固に提示し続けた。

2003年の春近く、わたしは失恋を経験した。
初めての失恋ではなかったがこの一件は地味ながらも心身に大きなダメージを与え、2週間で8kgの体重が落ち、果ては1週間ほどの間、声が出なくなった。ある朝起きたら声が出なくなっていたのである。
心的なものがきっかけになっていたのは明白だったが、これは吃ったり発声が困難といったレベルのものではなく、社会活動上で必要な会話の際にも不便をもたらし、ほとんどのシーンでいつも持ち歩いていたノートとペン以外に更に小さなメモノートを筆談用に持ち歩く必要が発生した。
この頃にも多くの方に支えられた記憶があるが、近しい間柄だったTふたりが川口湖へのドライブ旅行を企画してくれた思い出がある。






















【 関連・敬省略・順不同(思いついた順) 


祈り」   赤い公園     発表年 2020年
https://youtu.be/CfM8cAI2v24


 Is Death Reversible ? (IN BRIEF)」 
 Christof Koch        発表年 2019年
https://www.scientificamerican.com/article/is-death-reversible/


神曲(地獄編)」 ダンテ   発表年 1320年
*祖父母の本棚からこの本を選択した際の決め手が『分厚めなので知りたいことの答えがつまっていそうだった』のと『装丁に色があった』から、画像検索と記憶照合により1953 ( 昭和28年 )初版 / 北川冬彦 訳の可能性高20211002


いつくしい日々」 長谷川白紙 発表年 2019年
https://youtu.be/wSRwocoVuWI


Hoppipolla (Live from Heima)」
 Sigur Ros          発表年 2010年
https://youtu.be/KbPWi1gshzI


西の魔女が死んだ
 梨木香歩        発表年(初版) 1994年
https://youtu.be/xm7lq9vBW8E


蜘蛛の糸」          発表年 1918年
 芥川龍之介        (初出「い鳥」にて)

幼少時の様子を親に語らせるに
『とにかく赤が好きだった』と聞いた。
確かにそんなような気もする、そういえば『赤い靴』も、なんかこわいのに何故かつよく惹かれた、わたしにとって赤って... なに...?

セブン・イヤーズ・イン・チベット
(原 : Seven Years in Tibet)」  発表年  1997年
Jean-Jacques Annaud(ジャン=ジャック・アノー)
https://youtu.be/1PyCc8t1N8A


キリマンジャロの雪
 アーネスト・ヘミングウェイ   発表年 1936年


「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ」 
       [前編] 始まりの物語 発表年 2012年
       [後編] 永遠の物語  発表年 2012年


A Deep-Dream Virtual Reality Platform For Studying Altered Perceptual Phenomenology(ARTICLE)」       発表年 2017年
              筆頭発表者フロントマン鈴木 馨介
https://www.nature.com/articles/s41598-017-16316-2

* 学術学会の演目集はフェスのそれと類似していて参加している最中も「ここでこの先生の発表を拝聴した後は、時間的に見られるのは次ここかなー(Green Stageの演目band途中で抜けてレッドマーキー行こっかなーと感覚的には同)」とつよく感じ、ついルビってしまいました(おふざけ)。
が、フロントマンと筆頭発表者の定義付けは少々異なります。
発表物の価値について言及すればほんの少しだけ、
「音楽」を司る者の放つそれ発表物の方が重い


夢見の技法 ー超意識への飛翔 ー 」
 カルロス・カスタネダ      発表年 2013年


透明な沈黙」          発表年 2010年(刊行)
 ウィトゲンシュタインの言葉
   ×
 新世界「透明標本」  冨田伊織


 「永遠」            発表年 1872年
アルチュール・ランボー(Āsā ranbō)
  Elle est retrouvée.
  Quoi? - L'Éternité.
  C'est la mer allée
  Avec le soleil. 
  Ame sentinelle,
  Murmurons l'aveu
  De la nuit si nulle
  Et du jour en feu. 
  Des humains suffrages,
  Des communs élans
  Là tu te dégages
  Et voles selon. 
  Puisque de vous seules,
  Braises de satin,
  Le Devoir s'exhale
  Sans qu'on dise : enfin. 
  Là pas d'espérance,
  Nul orietur.
  Science avec patience,
  Le supplice est sûr. 
  Elle est retrouvée.
  Quoi ? - L'Éternité.
  C'est la mer allée
  Avec le soleil. 

DNAに魂はあるか(驚異の仮説)
(原:The Astonishing Hypothesis
Francis Harry Compton Crick         発表年 1994年(初版)

利根川 進 先生のお口から音としてわたしは以下の内容を拝聴する機会に預かった。
「デカルトの心身二元論を経て(中略)、クリック博士(上記載DNA)を起点にこの1世紀程は脳科学者の(ほぼ全員が)精神タマシイ?の在りと記憶の蓄積場所を突き止める方向性でアプローチしてきているといっていい」
尚、わたし自身は文系畑産のカボチャ脳あんぽんたんなので、実際に先生がお話された内容や主旨の80分の1ほどの理解にしか及んでいない点、先生はわたしと二人での対話をおこなっていた訳ではないので筆者の主観の混合がつよいであろう事も追記しておく。
脳にはおよそ1千億の細胞ががある事、クリック博士が過去に打ち出した、「我々ニンゲンは無数の神経細胞の集まりと、それに関連する分子の働き以上の何ものでもないという仮説」もとに、この1世紀の脳科学者の本流たる世界全体の脳科学研究のベクトルは、更にマクロに進んでいる事を、利根川先生のお口から直接「」として聴けたことは筆者にとって大きい。
医学・科学においても「肉体(物体)」から「意識タマシイ?」にその研究の対象が明らかに移行している(わたしが見聞きした主観では明らかなのだ)。これは、20世紀の半ばに発明されたペースメーカーの出現によって、それまでは「呼吸と心拍の停止」を「死」としてきたその定義が変容を求められた事に由来すると思われる。
以下、医療の現場に従事されておられる方々は前線での感覚値として捉えられると愚考するが、医療はそれにまつわるテクノロジーの発達に伴い、抜本的な「生」の定義付けについて、常に(新た)に問われ続けるレールに乗せられた。つまり、法的に「死」したる存在とするのか否かの線引きも上記と対になって set で問われ続ける運命さだめを背負う事となった。その現実的側面における矛盾点の解決は個人の選択に委託された、と解釈することも出来る。わたしが記述するまでもなく、そのあたりの法的整備(レールの舗装)はその分野に特出した専門家が注力して解決に当たっている(はず)、また研究者達はそれと違ったベクトルでその解決の糸口を見出す為に現在
物質世界に限界はあるが、どうやら意識の発展・拡大に限界や制限は無いようだ」の方向性へ科学も加速して動いているようなのだった。利根川先生の言い回しから、これはわたしの期待するところの起点から発生した研究者間のムーブメントではないように聞こえた。脳内の解明されていない部分について、法的な生死の線引きを明確にするため可及的速やかな研究成果を打ち出すことが政府機関から促されている可能性、これは良い悪いの話ではない、政府機関はそれぞれの持ち場ですべき仕事をしているだけの事だ。いずれにしろ発想や着想の起点はちがえども、わたしが長年願い続けた「科学宗教盲信者が多い上に反発するから問題だな、結託・統合する方向を選択した方が未来は生産的なのに」と、考え続けて来たジレンマの中で光明を見た心持ちになる事ができた。否、それは雷の、あとから来る音と似ている、その次は雨だ。この後の結果が「地固まる」に着地するか「土砂災害」になるかは、それを決める個々人の意識脳のハタラキが大きく影響するものと考えている。「どうせ」と考える人が多ければ多いだけ、地盤は緩むだろう。
個人の自覚の有無に関わらず生きて存在している時点で、
全員がこの
世界の参加者だ
踊れ、此処からは前も後も上も下もない、大小も優劣も正誤も必要ない、縦横無尽の時代本番です)
明るく楽しく、可能ならば周りをも巻き込んで愉しいの和High Vibrationを拡大させてゆく、これを一緒くたに実行できるのが「音楽の祭典Fes.」である。
わたしは歴然たる神事と捉えている。音楽Festivalめてはいけない絶対的理由のひとつにはこれがある。
もちろん規模なんて関係ない
(やっと言えた!勇気ったぜ、やっと書けた20211006 この事を遂には言う書くことが出来た今日がそういえば筆者を初めて1999年にクラブイベントへ誘い出してくれた友人の誕生日だったのも単なる偶然?)
現時点で自分なりのひとまずの結論に到達できるきっかけ利根川先生との遭遇を得ることが出来たのは誠に有益な経験で、これまで関わってくださった多くの先輩・後輩・友人達との時間と寸分たがわず等しく、先生がお与えくださった時間は、ほんとうに貴重な体験だった。(2012年)


「 ユリイカ」           発表年 2014年
  サカナクション


「 修禅寺物語 」(原:岡本綺堂)  発表年 1955年
 中村 登


「 はてしない物語 」        発表年 1982年
(原:Die unendliche Geschichte ) 発表年 1979年
 ミヒャエル・エンデ


「 ガラスの動物園 」         発表年 1944年
 テネシー・ウィリアムズ


Restoration of brain circulation and cellular functions hours post-mortem」            発表年 2019年
          筆頭発表者フロントマンZvonimir Vrselja


「 ふたつの世界」  くるり     発表年 2015年


「 銀河鉄道の夜」  宮沢 賢治  発表年 不明


「 Love to live by」                発表年 2007年
「 Love to live by -FPM electric electric mix- 」 
  m-flo loves Chara


「 セブンスター 」          発表年 2002年
 中村 一義
https://youtu.be/NlNPZ_AKGkA


「 智恵子抄 」            発表年 1941年
 高村 光太郎


「 僕といっしょ 」          発表年 1997年
 古谷 実


 「 草枕 」             発表年 1906年
 夏目 漱石         (初出「新小説」にて)


「 Let Down 」           発表年 1997年
 radiohead
https://youtu.be/ZVgHPSyEIqk

*全テキスト内で登場させる音楽にまつわる参考引用について「日本語で歌われたもの」に限定しようと決めて走り出したが、実際のところ「歌詞」のある音楽内では洋楽の方が日常生活上流れているシーンが多いため難しく、また、半生をテキスト化して語る上でこの1曲を引っ張り出さない訳にはいかず、これを記事上に載せたのを発端として洋楽も解禁、織り交ぜつつ記述を進める事へ変更する


 「 鱗姫 」             発表年 2003年
 巌本野ばら


「 戦場の精神史:武士道という幻影 
 佐伯 真一          発表年 2004年(初版)


「 Candy Paint 」         発表年 2017 年
 Post Malone
https://youtu.be/mThqhAT2Irk


「 Exhale 」           発表年 2020年
Jónsi
https://youtu.be/U44-xky1vjw


「 エレファント」        発表年 2004年 (jpn
ガス・ヴァン・サント


「 モーターサイクル・ダイアリーズ 
 (Diarios de motocicleta)
ウォルター・サレス        発表年 2004年
https://youtu.be/RWBsQArUkQY


「 リトル・ミス・サンシャイン 」  発表年 


「 乾涸びたバスひとつ 」        発表年  
 米津 玄師


「 大いなる遺産 」           発表年 1860年
(原:「Great Expectations」)
 チャールズ・ディケンズ
(Charles John Huffam Dickens



「 トロッコ 」          発表年 
 芥川龍 之介


「 a. m. e 」         発表年
 cinnamons


「 最後の一葉 」        発表年
 O' Henry


「 Delicate 」         発表年
 テイラー・スウィフト


「 イメージ 」          発表年
 The Gateballers



「 ノートルダムの鐘 」      発表年 



「 マタイ福音書 」        発表年 不明
(Evangelium Secundum Mattheum)



 Happy Ending 」       発表年 2013年
 The Strokes


 「 幸福論 」          発表年 
  アラン(Alain


The 90's 」        発表年 2021年
 FINNEAS
https://youtu.be/y9_UA0BRzYc


Goodbye to All That 」  発表年 2020年
 Sufjan Stevens


マヨイガ」          発表年 2021年
羊文学ひつじぶんがく


百万円と苦虫女」     発表年 2007年
 タナダユキ





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