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昨夏のこと。

大森靖子さんの「流星ヘブン」( https://m.youtube.com/watch?v=bDTwXCrcHxs )の

「アカウントを消して仮想的に自殺する」

という歌詞。

この歌詞に深く、深く共感を覚えた。


昨夏、あるアカウントを衝動的に消した。
私の持っているアカウントの中では珍しく、多くの人と繋がっているものだった。理由は明かさず、「今夜消します。ありがとうございました。」と。
理由は明かさなかったのか、それとも私自身にもよくわからなかったから明かせなかったのか。とにかくいなくなりたかった。

今から思えば、あれは私にとって一種の自殺だったのかもしれない。おそらくフォロワーが数人ならば消さなかっただろう。意味を成さないからだ。ある程度の人数がいて初めて"自殺"は成立する。
けれども、何百人、何千人ものフォロワーがいようと、Twitterという場所ではすぐに忘れ去られていく。ネット上のつながりとは希薄なもので、彼らのリアルにはなんら影響を与えない。この中で、自らが砂漠の砂に過ぎないのだということをまざまざと感じさせられる。常々砂漠の砂になりたいと漠然と考えていた私にとって、それは大変都合が良かった。

そう考えると、あの自殺は「死にたい」よりもむしろ「消えたい」を満たしてくれるものだったのかもしれない。ともかく、仮想的自殺は私の心を多少軽くしてくれた。


そのアカウントでは、リアルアカウントで呟けないようなマイナスなツイートも数多く並んでいた。それらを消すことにはなんとなく抵抗があって。削除する前にそれらを何かに残そうと、ひたすらスクリーンショットを繰り返した。そして最後にプロフィールをカメラロールに保存してから、自殺は決行された。


「消えたい」のは確かだが、自分の苦しみ、辛さと闘っていたその時間、努力までもは捨てたくなかったのだ。周りの誰もが忘れても、私はその"私"を忘れたくなかった。みんなには忘れて欲しかったのに、私だけは忘れたくなかった。なかったことにしたくなかったのだ。とても未練がましい。それなら"自殺"などしなければいいだろう。でも死にたかった。消えたかった。わがままな話だ。それでもそのアカウントを忘れるということは、苦しみのなかでもがいていた自分が抹消されるように感じて。できなかった。否定しきれなかった。それは長い目で見れば良いことなのかもしれないが、同時にとても苦しい。辛い、と感じている自分を認めることの難しさ。でも、普段は認められないからこそ、その"自殺"の時だけは、私の中の"'私"が亡くなる、その特別な時だけは私が認めてあげたかった。


アカウントを消してから約半年。未だそのスクリーンショットたちは消すことができていない。きちんとバックアップをとっているのに。「iCloudの容量が足りません」と毎日のようにAppleからの無機質なメールが届くのに。他の写真は躊躇なく削除できるのに。たまにふと見返したくなる。感覚としては、まだ成仏できていないというのが近いのだろうか。そのスクリーンショットを消せるようになった時というのがもしかしたら本当にその自分を認められたときなのかなぁとか思ってみる。あと何年かかるだろう。


大森さんの音楽を聴いていると、ある一節に強く心を惹かれる歌詞と出会うことがある。その理由を説明できるものもあれば、漠然と「意味はわからないけれど、なんとなくわかる」となるものもある。そして、それを延々と考え続けて言語化していく作業が個人的に心地よかったりしている。