死んでないだけの人生に寄り添う背徳感溢れる中毒性[悔やむと書いてミライ 25時、ナイトコードで。]

[悔やむと書いてミライ]とはプロジェクトセカイにおけるグループ[25時、ナイトコードで。]の楽曲である。ここではあくまでこの曲単体に対する個人的な解釈と魅力を紹介する。

3つの居場所

誰しも生きていれば心が重くなる時はある。仕事であったり学校であったり家庭であったり様々な居場所で様々な悩みがあることだろう。ことそういったマイナスの感情に関しては自身の視界が狭ければ狭いほど自身の中における悩みの割合は大きなものとなる。
自分の居場所を最低でも最低3つ以上持つことで心は楽になるという理論がある。主流となる居場所としては主にまず家庭、それから職場あるいは学校、最後の3つ目が趣味の居場所であったり友人との時間であったりする。
役割としてはまず家庭が自分の素でリラックスできる場所、2つ目の仕事や家庭は社会的における居場所となり、最後にそのどとらにも属さない居場所。現代ではいかにこの3つ目の居場所を自分自身で増やすかといったことが重要視されている。

以上の理論はあくまで一般的にして理想的な生き方の一つである為、理屈としての納得は得られる。では自分で居場所をコントロールできない人種はどうなるのであろうか。最も大きな種別でいえば、やはり学生であろう。金銭的な余裕があれどなかれどある程度の年齢に達するまでは親元を離れることは難しく、逆も然りで親元を離れてしまった場合そう易々と精神的居場所という面で別の家庭という居場所を得ることはできない。自分自身の進む先における選択肢こそあれど、基本的に今いる場所に対する選択肢、あるいは選択権はない。自分で自分をコントロールできる人間と比べて受け身だと言わざるを得ない。それに対して良いも悪いも思わない、ただそういった状況があるだけで仕方のないことだからだ。

この曲は、前述のような人達にとって、圧倒的な共感のしやすさを誇る。狭義で言えば、それ単体で3つ目の居場所とすら成り得るほどの。

殺されることで誰かが未来に希望を見出だしてくれる

本題である[悔やむと書いてミライ]の話に移る。プロセカというコンテンツが、そしてこの曲がなぜ現在10代、20代の女性層から圧倒的な支持を得ているかという理由は一つだ。
それは、圧倒的な共感のしやすさ。これに尽きる。

この曲の歌詞は基本的に一貫して生に対して受け身である。真綿で首を絞められ続けているような閉塞感に加えて自分の人生に対する諦めと絶望がふんだんに詰まっている。また、自己の消滅に関しても自然消滅、あるいは他殺という消え方を望んでいる節が見られる。

自殺というのは自分自身の人生に対して見切りをつける諦めである。だが、他殺というものは他の知らない誰かが必ず死の先に希望を見出だしてくれる。被害者であり、理不尽に奪われた側になる。あったかも知れない希望を奪われたという事実を与えてくれるのだ。ここにこそ、前述した人種の共感のしやすさが詰まっているのだと私は考える。

現状の変化を求める者が誰しも希望を持った祈りをするわけではない。いつか誰かが素敵な世界へ連れていってくれると思う人もあれば、いつか誰かが耐え難い現状を壊してくれると思う人もいる。この曲が後者の層から支持を集めるのは半ば必然ですらある。

未来で悔やむことを分かっていながら、生き続ける

そして最も大きな要素として、この曲において死は訪れない。苦しみもがき、生き続けているし、あまつさえ最後には本当に全てを諦めきれるほどの後悔を与えてほしいと懇願し終わる。
この曲の真髄はここにある。現実でこの曲を聴き、共感している人達と同じ立場であり続けるのだ。最後の最後まで、「後悔を頂戴」という受け身の姿勢で終わる。打破できない現状に絶望し、その現状を打破できないし変えようという素振りもないまま終わるのだ。この一貫した諦めによる寄り添いこそが、この曲の求心力の源であると考えられる。

生きたくないと思う人間が生きているという行為はそれだけで輝かしい

生きたくないと思う人間が生きている、ということは非常に強く賞賛されるべきことだと私は思う。生きるということが美しいだとかそういった話でなく、生きるのが苦しいと思いながら生きているということが素晴らしいことだという話だ。なぜならばそれは精一杯の努力だからだ。そういった観点で見る時、この曲は非常に美しいものに見える。もがき、苦しみながら必死に生きている人間の一つの美しい姿だ。ただ陰鬱なだけの曲でない、絶望しながら生きている。非常に暗いのだがかろうじて前だけは向いている。そんな生きる人間の美しさが描かれた曲であると私は考える。

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