【逃げ上手の若君】で最も美しい男「瘴奸」の魅せた最高の自己救済。略奪の本質とは他者の人生で自分を救うことにある
略奪とは自分の魂を救うために行うものである。
いつの世も人間というものを構成するものは今までの人生で手にしたものではない。
人生の中で手に出来なかったもの、あるいは失ったものだ。
故に過去を取り戻そうとする人間は永遠に救われない。
人の身で過去の自分を救うことは絶対に出来ない。
しかし誰もが救われたいと願わずにはいられない。
だからこそ、過去を取り戻さんという劣等感に忠実に生きる人間の行動力というものは常軌を逸している。
なので人間の本質、原動力のなんたるかにおいて劣等感よりも強力なものはない。
だから私は愛している。劣等感を。
一つの劣等感は万の成功を知るよりその人のことを教えてくれる。
しかして人は気付く。どう足掻いて今救われようとも過去は消えないと。
そんな時、いかようにして自分の傷を癒そうか。
どうしたらこの苦しい心は救われるのか。
簡単な手段がある。
可能性を奪うことだ。
自分がそうはなれなかった未来を持つ人間から人生の可能性を奪う。
そうして相対的に自分の過去は恵まれていたと思うことだ。
自分の物欲を満たしたいから奪うのではない。
他人の可能性を失くす為に奪う。
救済というものは善悪という観点で語られるべきではない。
誰も止められない。救われる自分に快楽を覚えずにはいられない。
自分と関係のない未来を奪うことは楽しいのだ。
どんな時代も僕たちは楽しいことが止められない!
今期最も負けヒロインが多すぎる作品こと【逃げ上手の若君】で最も美しい生物とは瘴奸である。
私はアニメ勢のため初見で8話を見た際、あまりの美しさに涙を抑えることが出来なかった。
本当に美しい。
彼は略奪の本質を完全に捉えた生き方をしている。
奪う側からしたら略奪したものなど奪ったものの一つに過ぎない。だが奪われた側は永遠に奪われ続ける。
瘴奸は奪う側でありながら奪われるものへ憐れみを覚えることができる。それは彼もまた奪われた側だからだ。呪い呪われの輪廻から人は解脱することは出来ない。
その美しさは圧巻と呼ぶ他にない。
しかして正味8、9話と見てしまえばある意味では8話のでかすぎる一発が全てであった節はある。
本作における最も魅力的な人物「五大院宗繁」の圧倒的なかっこよさと魅力には及ぶ。
だが瞬間最大火力に関しては瘴奸のほうが高かった。それだけでも特筆の価値があるというものである。
瘴奸が求めるものは「救い」である。
彼に見つけた救いとは他者の未来を奪うことである。あの日の自分よりも惨めで哀れで救われない生物を自分の手で生み出す。
それによって相対的に自分は救われていたと安心することができる。だからそんな様を見ていると気持ち良く酔えるのだ。
あの日の瘴奸は守るために鍛えた武芸があった。だから奪う側に回ることができた。力には善も悪もない。
だが未来を奪われた子供達は何も持っていない。自分で自分を助けられるものもなく、あの日の瘴奸よりも救われない状態で世に出されている。
あの日の自分よりも不幸な存在だけが彼の魂を救うことができる。
彼は領地を与えられなかったという劣等感を解消するため武士から賊へ堕ちて略奪によって「あの日与えられるはずだった」領地を取り返そうとした。
しかし当然ながら魂まで報われるわけではない。
彼は何も悪くなかった。強いていうながら生まれた運命が悪かった。
人は誰もが運命の奴隷だ。持った生まれたものを変えることは出来ず、同様に持たずに生まれたものを得ることは出来ない。
だから瘴奸はどれだけ領地を奪えども満たされることは無い。
彼が父親から、あるいは主君から土地を与えられなかったという劣等感は永遠に解消されないのだから。
彼が美しいのは「手段」であった略奪が「目的」に変わっているからである。
満たされず苦しみ続けた男は自分の行為から「美徳」を見つけ出した。即ち略奪美だ。
それが冒頭にも話をした「未来を奪う」という行為だ。
あの日の自分よりも不幸な存在を自分自身で作り出し、それを見ることで「まだあの日の自分は恵まれていた」と慰める。
永遠に救われないことを心ではわかっていないと出来ない切り替えだ。
それでも救われることを諦められていないから瘴奸殿は美しいのだ。誰がこれを生き汚いなどと笑えようか。
救われない人間が自分なりに救われようと生きていた結果、自分なりの救いを見つける。
彼にとってそれは略奪であったし、本質は酔いであった。酔いとは麻痺のことである。
つまり、一時的な救いに過ぎない。
一時でも良い、気持ち良ぉく酔えるのであればそれは彼にとってかけがえのない時間に他ならない。
奪われた子どもたちは気の毒である。だが私には彼らへ同情しないし出来ない。
自分で自分を救おうとする瘴奸を応援したくなってしまうのが人間のサガというやつではないか。
人は誰しもが救われたい。
死ぬまで救われない思いを抱えながら生きる人間が一時の酔いのために他の誰かを同じ境遇に落とすなど絶対に許されないことだ。悲しみの連鎖を生むことに意味はない。
しかし、ならば永遠に救われないまま生涯を終えよというものはあまりに殺生ではないかとも思う。
倫理観と自己の欲望とのせめぎあい。
人間であれば誰もがためらい、人間であるからこそ諦めてしまう。瘴奸はそこのブレーキが壊れている。
もちろん時代が時代というところは加味できる。しかし、未来を奪い安心するという行為のために略奪を行う様は鎌倉においても異質である。
だからこそ美しい。何度でも言おう、彼は美しい。
私は善悪を超越した存在が好きだ。
瘴奸の行いは一般的には悪である。だが彼はそんな観点を持っていない。
全ては自分の救済のために。そのために生きて他人を生き地獄へ落とせる様は善悪や倫理観を超越しており神々しさすら覚える。
彼は最後死をもって真の救済を与えられたかと思いきや生かされる。
果たしてこれを人売の外道に安寧の救済は訪れないという罰と見るか。
それとも一度死んだ気持ちで人生をやり直す機会をもらったと解釈するかは人により別れる点である。
私は彼にとっては武士としての道が再度生まれたことこそ救いであると考える。
そのほうが世界は無慈悲だからである。
多くの人の命を奪い子どもの未来を奪った瘴奸がかくも鮮やかに救いを得る。あるいは後に自身の略奪を悔いたとしても奪ってきた未来は戻らない。
彼に奪われて絶望の未来を生きる子ども達は自分の手で救いを見つけなければならない。瘴奸は他者の手で救われてのうのうと生き延びたというのにだ。
世界は不平等で理不尽である。
同じように罪に対する罰もまた不平等である。
故に瘴奸はやりたい放題やってなんだかんだで自分だけでちゃっかり救われるというなんともな結果を得ている。
そこに対して罪も罰もそういった概念が出てこないのはやはり彼が善悪を超越している証明そのものである。
一重に救いを求め続けた男は救いを得た。これからどうなるかは分からないが劣等感なき存在に私は興味がない。
もしも今後出るとしても8話で見たような煌めきが失われているのであれば特筆には値しない。
だからこそ8話の輝きは永遠に燦然たる煌めきである。
あの一瞬の瞬間最大火力はこの作品において中々超えることは難しいのではないのではないかと思われる。
そんな出会いに感謝を。
何よりもあの圧倒的な美しさに祝福を。
私もまた彼が奪った未来、奪われた無辜の幸せを思うと気持ち良く酔えるのだ。
何よりも、瘴奸という善悪を超越した邪悪に酔えるという事実そのものが嬉しくてならない。