【宵加減テトラゴン】こそが【まちカドまぞく】最強の曲。桃が守るまちカドに生まれる光と闇が良い加減に混ざりあった至高の四角形
原作者作詞という力は何にも勝る。
そこから生まれる解釈、そいつが見たものがその作品に対する感傷の全てと言っても過言ではない。
それほどのものが、原作理解度の高い主題歌には詰められている。
そう、"まちカド"にもそれは存在する。
美しい、美しいまちカドに"花束"が──────
先日【まちカドまぞく】のアニメを全て視聴した。かつて特大ムーブメントを巻き起こしたこの作品であるが私は後追いでの履修という形になる。
なぜ時代の興隆期に履修を納めず今だったのか。多くの理由はある。
だが最も大きな理由としては私の震えるべき業と呼ぶに相応しい性質が関わっている。ガチ恋勢という業だ。
【まちカドまぞく】有識者であればこれがいかに命知らずで場違いな思考であるかと考えるだろう。
その通りだ、まぞく最大勢力である「シャミ桃」というカップリングの存在だ。このあまりにも巨大すぎる勢力の前に当時はここに俺の居場所はない、と決めつけていてしまった。
だからこそ弱さと向き合うことでちゃんとした力を手にする事ができた。
なるほどな、と。確かにこの作品、シャミ子と桃の2人の関係性は非常に強い力を有している。だが私としてはそれ一強ではなかった。
だからまずここにおいて話したいことは【宵加減テトラゴン】という曲の芸術点の高さだ。全ての話はそこから始まる。
まぞくの曲で【宵加減テトラゴン】が一番この作品に寄り添い、雰囲気を出している。だが特筆すべき点はさほど多くない。
基本的にはアニメ2期6話「夕日の誓い! まぞくたちの進む道」の話が概ねである。
ではまず【宵加減テトラゴン】という言葉の意味とは何か。実にシンプルである。宵=夕暮れに、テトラゴン=四角形。
これだ。ここが始まりであり究極である。これがこの曲の核である、という点を踏まえることでようやく戦いのスタートラインというものに到達することができる。
【星の王子さま】との対比・類似
最初に大枠、世界観をも超えた作品の核となる話をする。
上に記載した歌詞の部分、実に【まちカドまぞく】には似つかわしくない歌詞だ。
直接的に薔薇を冠するキャラもいないし【星に愛】というスケールの大きな話も「街角」を舞台とした本作では違和感が生まれる。
””だからこそなぜ使用されているのか””を考察する必要がある。それほどまでに原作者作詞という肩書は全てを凌駕する。
答えは【星の王子さま】へのオマージュにある。当作を読んだことがあればすぐにピンとくる歌詞である。
世界的名作である本作を意識した歌詞であるという前提を持てばとても深みのあるまぞくらしさを出す。
非常に簡素も簡素であるが【星の王子さま】の解説を挟む。
【星の王子さま】における薔薇とは王子さまが愛する花である。そして生物である。主人公である王子様は大人が忘れてしまった子供の心をもっているので花や動物と会話をすることができる。
王子様の住む星(≠地球)には一輪の薔薇が生えていた。王子様は生まれてからその薔薇以外に薔薇を見たことはなかった。そのため彼は自分の星は特別ですごいのだと信じて疑わなかった。
薔薇はとてもわがままで手のかかる美しい女性だった、だがそれでも王子様はそんな特別性もまた愛していた。
だが地球には王子様の星には一輪しかない薔薇が無数に存在している。
彼は自分の薔薇は特別でなかった事実に悲しむが、ある生物との会話の中で本質は数でないことを知る。
地球に存在する薔薇はどれも全て王子様の星の薔薇とは違う。わがままを聞いてあげたのもお世話をしてあげたのも自分の薔薇だけ。
見た目や形は同じでも本質が全く違う。そのことを通じて世界的に有名なフレーズである「本当に大切なものは目に見えない」ということを心で理解する。
【星の王子さま】において「費やした時間が愛情になる」という概念が重要な要素となる。王子様で言うところの薔薇と過ごした時間だ。
それは即ちシャミ子と桃が共に過ごした時間と等しい。一緒に過ごした時間によりお互い徐々に心を開いていくところ。コミュニケーションにより「一人の魔法少女」から「千代田桃という人間」へ認識が変わっていくように。
上記のような作品の核となる部分において非常に通じている箇所が多い。
リスペクトとオマージュがあるからこそ、相違点から見える【まちカドまぞく】らしさが際立つ。
前述した王子様と薔薇の関係において、薔薇は王子様に守られなければ生きてはいけない存在であった。ただ守り愛を与え続ける、無償の愛が関係性の根底にあった。
まぞくにおいても最初はこの関係性があったが徐々に変わっていく。弱かったシャミ子が少しずつ戦える力を身に着け、逆に桃は弱くなっていく。そんな2人が手を取り協力し合うこのパワーバランスの返還とそれに伴い強調されていく「2人でやる」という要素は大きな要因の一つだ。
【星の王子さま】において「薔薇」は多くの意味で唯一無二であった。あくまでも王子様の星に存在する一輪の薔薇にこそスポットされ、彼から与えられた愛情がフォーカスされていた。
【まちカドまぞく】においてそれと対照的であるのは【宵加減テトラゴン】に多く現れる【花束】の歌詞であろう。
この【花束】という歌詞に対する解釈であるがそれはばんだ荘に集まってくるみんなのことである。最初はシャミ子だけであったがそこにご先祖が復活し、ミカンと桃が引っ越してくる。
そんな風に多くの人達が街角のばんだ荘に集まった様を「花束」と称しているのだ。
【星の王子さま】においてはあくまでもやはり王子さまにとっては自分の薔薇が一番大切という結論に至っていた。だが【まちカドまぞく】においては違う。
みんなが集まり花束のような街角こそが良いのだと。ここは大きく対象的な要素である。リスペクトがあるからこそ際立っている。
そういった相違点と類似点がある中でそれでも【星の王子さま】を想起させる歌詞を入れてきているので、これに対して特筆しないという選択肢はありえなかったわけだ。
2人の関係性
さて本題となるシャミ子と桃の関係性についてである。これについては諸説あるであろう。
私はここで強く訴えたい。この2人の関係性において”恋愛感情が存在しないからこそ熱い”ということを。
これは多くの作品において適応される概念である。真に伝えたいこと、それは純度の高い「友情」だからこそ吸える栄養素が存在しているということだ。
恋愛感情の入り込む余地がない、そこにあるのは純然たるシャミ子からの「笑顔になってほしい」という想い。ここに恋愛感情は必要ない。なぜならばその感情は時として打算を生み出すからだ。
あくまでもシャミ子は一人の友人として桃へ笑顔になってほしいと考えるわけだ。そこに下心がないから清く美しいものに映るわけだ。
この純然たる友情、桃はシャミ子を守りたいと考えてシャミ子は桃に笑顔になってほしいと願う。この「友情」においては恋愛感情は不純物にしかならない。
そんな感情がなくても2人は繋がっている。友人として幸せを願っている。
ということを前提とすることで【宵加減テトラゴン】の歌詞が光に満ちているということが分かる。
まず最初にここで言われている【君】とはシャミ子から見た桃のことだ。そして場面は6話の例のあそこだ。そう【町かどタンジェント】が流れるあそこだ。
夕日が印象的なあの場面、夕暮れと夜の合間である宵の時だ。これは場面の直喩であり、闇の女帝と光の魔法使い、つまり光と闇が合わさっていることの比喩でもある。
桃は光の魔法使いでありながら闇堕ちも果たし、両方を兼ねている。彼女にとってどちらも大切なもの、2つがバランス良くある状態。同時にシャミ子と桃の関係においても、どちらが強いのではなく混ざり合う対等な関係になったことを示している。
なので宵加減とは光と闇の具合の話であり、それは良い加減でもある。
そうなればもう【君に花を咲かせるよ】という歌詞の意味も必然的に導き出される。あの場面、桃の笑顔のことだ。
ミカンから「華はないけど桃派でしょ?」と言われたときの「桃だって私的には華はあります」の返し。
シャミ子だけが知っている桃の「花であり華」というその究極こそがあそこで見せた笑顔である。
その花は一つだけでない。色んな魅力があり、それだけ花が咲く。そんな輝きの集まりを【花束】と呼称している。
そして花は桃だけではない。ばんだ荘にはシャミ子がいて家族がいてご先祖がいてミカンが来て桃が来た。そんな多くの友人、仲間がばんだ荘に集まることもまた【花束】である。
その比喩表現の芸術点は非常に高い。なれば【万朶の花になれ】という歌詞はばんだ荘とかかっていることなど容易に繋がる。
なのでラスサビの【ああ まちカド花きたれ】という歌詞はばんだ荘で住む人たちに笑顔がずっとありますようにと。シャミ子が願ったみんなが仲良しにという想いを汲んだ歌詞であることが伺える。
そしてひいては桃があの瞬間だけでなく、ここでずっと笑顔でいてほしいと願う言葉でもある。これもまた純然たる友情だからこそ成せる力である。
ああ まちカドに
【宵加減テトラゴン】の歌詞は本編、特に2期6話にフォーカスすると他のどの主題歌よりも圧巻の火力を叩き出す曲である。
事実、私はこの芸術点高き歌詞の前に平伏し流石に【宵加減テトラゴン】が最強であると言わざるを得なくなっている。
【町かどタンジェント】も【ときめきランデヴー】も非常に強火な萌え萌え渋谷系ソングで美しさ溢れているのだがやはり原作者作詞という名を冠する力のみが信じられる。
各OPも力を有しているが作品の雰囲気、求めんとする未来像に対して少し歌詞の湿度が高すぎるのではないかと感じた次第だ。
EDはEDで曲調からしてギリギリ間抜けさを感じるほどに明るくのどかすぎるほどの雰囲気すらある。だがこの底抜けな明るさこそが【まちカドまぞく】らしさである。
考えれば考えるほどあの世界は過酷であり各々が抱える設定もギャグテイストで包めているか怪しいほどにヘビーなものが多い。
だけど作品の根本、核となるものは「暗さ」ではない。明るさであり隣人愛であり「光」である。
やはりそういった点で原作者の掲げる思想が歌詞と曲調に見え隠れしているところが非常に高評価である。
さてそうなると一つ疑問が残るな。お前はシャミ子と桃の関係性があくまでも友情であると、そこに”カップリング論など不要”だと言うのだな、と。
冒頭のガチ恋勢がなんだかんだの下りはなんだったのだとなるな。その通りだ。
かつてオタクたちを騒がせ「シャミ桃」ムーブメントを巻き起こしたこの作品においてカップリング論をしないというのは”逃げ”である。
次回、【まちカドまぞく】最強カップリング論記事でまた相見えよう。