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彼女と星の椅子

ナポリタン作
 ピンポン。四畳半の部屋に、短い、気の抜けたドアチャイムが鳴り響く。
玲が返事をする間もなく、そこら中に散らばっているカップ麺を避けながらニコが部屋に入ってくる。玲の部屋にあるのは、たばことカップ麺と2脚の椅子とテレビ、そして一本のギター。天井には、いつもプラネタリウムが映し出されている。
「相変わらずちぐはぐな部屋だねえ」
ニコは、天井を見ながらつぶやき、玲の隣に置いてある椅子に座る。
「コイツも下手くそ。どいつもこいつも馬鹿ばっかり。なんにもわかってない、最悪」
玲は、ニコの姿を見ることなく、テレビの中で唄うスターを見て、皮肉とともにたばこの煙を吐いた。
「また見てんの?嫌いなら見なきゃいいじゃん、歌番組」
玲の部屋に来るときは、きまって歌番組が流れている。
「私の方が絶対うまく歌えるのに、本当になんにも解ってない」
そして、きまって文句を言っている。
「でもこの人たち、少なくとも玲よりちゃんとしてるよ」
ニコにそんなふうに言われたのは、はじめてだった。ニコの声が、よく研がれた刃物のように、キンと響いた。痛みを感じたような気がした直後、気持ちの悪さが押し寄せてきた。玲は、ひとりテレビに向かって皮肉を吐いているそばで、気まぐれに玲の部屋に来ては、玲の厭味にかまわずとりとめのない話をしているニコが好きだった。
「え、玲?」

 玲はたまらなくなり、ボロボロのギターを雑に背負って部屋を出た。私のなにが分かるんだ、理解なんか、されてたまるか。体に不快な熱がたまっていく。ニコの言葉がわたしの中で響くたび、のどの底の方がじんじんした。
行き先は、眠れない夜にいつも訪れるタンポポ丘だと決まっている。桜の木の下にどかっと腰を下ろす。チューニングもままならないギターを勢いのまま鳴らし、熱を放つみたいに星に向けてがむしゃらに歌を唄った。ここから見える夜空は、プラネタリウムみたいに綺麗だ。

こうして、どのくらいの時間が経っただろう。のどにおもりがついたみたいに、声を出すのがつらくなってきた。錆びたギターの弦を長時間弾いていたせいで、汚れた指先が切れて、血が滲んでいる。いつの間にかそばにきて眠っていた傷だらけの黒猫を撫でてやろうとして、やめた。
「わたしはいったい、何がしたいんだろう?」おぼつかないギターと一緒に、あたらしいフレーズを考えてみた。

「いい歌声だね、すごく好きだな」玲はおどろいて、声がした方を振り返る。この場所にいるのは私ひとりだけだと思っていた。私の歌を好きだと感じるのも、私だけだと思っていた。
玲の背後に立っていた前髪の長い男は、コートのポケットに手をつっこみながら、細いくちびるに控えめな笑みを浮かべている。精一杯息を吸い込んで、きいたことのない歌を唄いだした。
「怯えながら唄うその歌は 一番君を解っていて 何度も君を守ってきた どんなとんがった雨からも」
暗闇と相まって彼の眼は見えないけれど、玲の眼を見て唄っていることは、玲にもわかった。
玲は、動揺を隠すようにたばこを咥えた。思うように火がつかない。強がる玲の様子など気にせずに、男はつづける。
「本当の君をもっと見てほしい君が 君に唄う 最初のメロディ」
玲も唄った。応えるように唄った。この男のような優しい歌声は持っていなかった。それでも、唄った。知らない歌の続きを、背を絞るように、吐き出すように、必死で紡いだ。
「だんだん自分に近づいて 自分が充分見えるだろう?」
「そんな、そんな幸せはないよ!」

 気が付けば夜空は白け出し、陽が昇り出していた。玲は、まるでこたえを見つけ出したような気分でボロボロのギターを大事に背負って、丘を下った。昨夜抱いていた不快感の正体は、情けなさだった。きっとニコはもう、部屋にはいないだろう。それでも、と、走り出したい気持ちを照れくささで誤魔化しながら、急いで部屋に帰った。
案の定、部屋にニコはいなかった。
いてもたってもいられず、窓辺の椅子に立ち、ギターと一緒に歌を唄ってみる。魔法みたいな夜の歌。天井に引き詰められたにせものの星に向けて、ほんものの気持ちを唄う。どんなメロディだったか、こんな歌詞だったか、あの男の優しい声を必死で思い出す。言葉じゃなく、歌で話をした夜のこと。

 ピンポーン。この前より、少し長くドアチャイムが鳴った。まるで、それが合図であるかのように、この部屋の空気がひりつく。ドアが開く音とほぼ同時に響いたふたりぶんの「ごめん」が、気が張ったこの部屋の空気を切り裂いた。
「やっぱり、また見てんのかあ」
玲の部屋には今日も歌番組が流れている。テレビから優しい歌声が聴こえる。ニコは、たばこを吸いながらテレビを見つめる猫背の後ろ姿を、今日も見ている。
いつものように、床に散らばったカップ麺を避けながら、玲のそばにある椅子に腰掛けた。玲の表情をうかがうように、横目で玲を見る。玲は、ニコの眼を見て照れくさそうに微笑む。
「この人の歌、いいよね」
                       了

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