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裸眼家族

小野美香作
 午後九時、豪雨。避難指示を告げた我が家唯一のテレビは停電により、今この時をもって黙り込んでしまった。え、本当に避難しないといけないの?年寄とか水辺に近い人だけじゃない?と思いながら窓の外を見ると、懐中電灯やらスマホの明かりやら何やらがちらちらと移動しているのが見える。やべ、まじか。えー、くそ熱いこの時期に停電ってだけでけっこうクるのに、人が密集してる場所にわざわざ行くなんてどうかしてるよ。ってかどこに避難すんの?避難バッグとかもちろんないし。あ、でも通帳いるかな?金さえあれば生きていけるって誰が言い出したんだっけ、と思いながら通帳のありそうな引き出しを探るもそう簡単には見つからない。何も得られないまま時間が過ぎ、地域にサイレンが鳴り響く。堤防が決壊でもしたのだろうか。とりあえず、スマホ。スマホがすべて。命よりスマホ、といそいそと靴を履き、ドアを開ける。家はアパート二階。下に見えるはずの道路の白線は夜だからか見えない。階段を降りていくと、そこにあるはずの次の段に足がつく前にピチャ、と音を立てて、馴染みのない感覚が足の裏から背筋を伝って、喉の奥のほうで軋むドアを開けたような悲鳴となった。一車線の道路の白線が見えないのは夜だからじゃない。膝下あたりまで冠水していたのだ。
 緩やかな坂の上にある、家から徒歩十分ほどの小学校が目的地としては頭に浮かんでいるが、実際のところ、人の流れに身を任せている。地下の許容量を超えて溢れた濁った水は、下が見えないという恐怖心を搔き立てた。そこで大いなる失敗に気づく。眼鏡もコンタクトも忘れた!昼寝してたから家でしていた眼鏡はかけてなかったし、コンタクトは外出の時にしかつけないし。いつまでも寝ぼけてるな、と思っていたが私が寝ぼけているのではなかった。視力が無かったのだ。急に双子の片割れを失ったかのような孤独感に苛まれ(一人っ子である)、歩いているのも億劫になってきた。足元に何かの感触があるたびに、家にいればよかったという思いが増していく。最悪だ。幼いころに見たジョーズの記憶がよみがえり、アナコンダがよみがえり、その水面下にまるで人食い鮫か巨大蛇でもいるような薄気味悪さが揺らめく。ジョーズなんてないさ、アナコンダなんて嘘さ。蛇ならそっとしておこう。鮫なら鼻面をどついてやる。
 じゃぶじゃぶ。じゃぶじゃぶ。無心になって水に逆らう時間が続く。徒歩十分の道程は果てしなく遠く感じた。やってらんねえと思いながら顔を上げた時、目の前を歩く男の姿に見覚えがあった。男はブロック塀にもたれるようにしながら歩いていた。焼きそばのような髪の毛、猫背についた中年特有の脂肪のついた。まちがいない。
 じゃぶじゃぶ。四足歩行にならんばかりの勢いで速度を上げ、その丸まった肩をめくるように手を伸ばす。ぺら、ではない。めりめり、という感じだ。
 「おとうさん!」
 父は半身が水に流されるようにして振り返った。黒縁の太い眼鏡、スマホの明かりが反射して奥の目は見えない。お化けですとでも言い出しそうなライトの当て方。父じゃなかったらわからなかった。こんな暗い中、誰かの顔を判別するなんて無理だ。でも、父だからわかる。
「なにぼーっとしてんの。さっさと歩く」
 と言って父の右手を引き込んで歩き出した。自分よりもとろかったり、おどおどしたり、空回っている人を見ると、いつもの倍の責任感が生まれる。父を見ればだいたいそうだ。しかし、同世代だと前者になりがちだ。しっかりしている人を見て、自分の甘え性が過剰に出てくる。どっちが先なんだろう。これも誰かが言い出したんだっけ。
「ちなみに通帳とか、掛け軸とか、全部忘れた」
 別に聞こえなくてもいいことが口をついて出てくる。あとごはんとか水とか、そういうのも全部だ。避難するときの荷物って多いな。...... だからバッグにするのか。
 懐かしい通学路を示す黄色い三角の標識が見えた。やっとここまできたか、やれやれ。膝下まであった水は足首あたりまでになり、ここからの坂を登ればじゃぶじゃぶともオサラバだ。半分、いや完全に身体を支える持ち手として扱っていた父の右手をようやく解放し、自力で歩き出した。坂を上がりきったその先に、ふてぶてしい校門が見えてくるはずだ。
 午後十時前、校門を過ぎ、スマホの充電は残り20%。死んでまうわ。非常用電源に切り替わった校内はまぶしすぎるほどの明かりを放ち、人々に安堵を与える、はずだった。
「あんた...... だれー!?」
 父であったはずのその男はなんと父ではなかった。照らし出された父だった者の顔は、明らかに父本来の年齢よりも若い。
「おとうさんじゃないじゃーん!」
 とんだミスだ。ミスとかじゃない。人としてどうなんだ。父を他人とまちがえるなんて。
「それはこっちのセリフだ」
 そうでしょうとも。
「なんで知らない人についてきてんの」
「それをあんたが言うか」
 そうでしょうとも。
 背格好はほんとに似ている。父が標準すぎるっていうのもあるけど。ただ顔が違う。何か若い。何か若いって失礼か。私とお父さんはもともと似てないけど、それ以上になんか似ていない!
 そこに銀行員のような制服を着た中年の女性がやってきた。おそらく役所の人間だろう。
「住所とお名前の確認をしております。身分証明書があればご提示の準備お願いします」
 女性はなにやらボードを持って回っている。それどころじゃないよこっちは。
「菅原信也です。仕事で来たので出身はこの辺りではないのですが」
 見事に父と違う名前。
「え...... まじでだれ」
「知るか!俺の名前だ。勝手に落ち込みやがって、複雑なんだこっちは!」
 免許証を提示して、他の事項を確認した後、次は私に回ってきた。
「小野美香です。学生証とか保険証とかないんですけど...... 」
 言いかけると、女性は顔をパッと明るくした。
「あら、美香ちゃん?まあこんなに大きくなって。私、お寺の」
 そこまで言われて、少し思い出した。
「ああ、お久しぶりです」
「まあ、ほんっとに!元気だった?ちゃんと食べてる?前はよくお話ししたのにね...... 」
 そこまで言って、今度は向こうが何か思い出したようだった。
「身分証明書は大丈夫。私が保証するし。じゃ」
 お寺ママはふくよかな頬をふわふわとさせて、そそくさと行ってしまった。
 ざわざわと体育館に集まった約二千人の人々の声が反響する中、ピーンという緊張が美香と男の間に流れていた。
「なんの仕事してんの?」
 男は目も向けなかった。
「なんでそんなこと聞くんだ」
「暇だから。充電もあんまりないし、気軽に話せる知り合いもいないし」
「バッテリーいるなら貸すぞ」
え、うそ!まじで神!
「まじでありがたい」
 本当に感謝してコードを差そうとしたとき、
「そう言って、何かデータを抜き取る機械だったらどうするんだ」
 と言われたので差すのをやめた。ケタケタ笑いながら、安心しろ大丈夫だと言うので、安心できません結構ですと断った。なんか馴れ馴れしくなりやがって、絶妙にやな奴だわ。ほんと。
「なんの仕事かって聞いたよな」
 体育館の舞台のほうに向けた目は、その先を見るような涼しい目をしていた。仕事の目なのだとわかるくらいに、その差は歴然としていた。
「写真を撮って記録に残している。資料としての写真だ。人も物も風景も何でも撮る」
 美香は男が手にしているごつごつとした大きなカメラをまじまじと見た。父もこういう仕事をしていたような気がするが、よくまあこんなもの使いこなせるわ。
「そういうセンス、全くない。撮ろうとするものの魅力ってレンズを通した瞬間、消えてなくなる。加工とかで今はなんとかしたりするけど。おっちゃん、まじでうまいなあ」
 おっちゃん言うなと言いながら、男は写真を一枚一枚送っていく。地元の何気ない風景が、人が、物が、照れながらもささやかにきらりとした何かを垣間見せる。その瞬間を切り取っているようだった。
「そりゃ、肉眼には叶わねえよ。いま、を撮ろうとしている限り。でも、カメラにはカメラの力がある。恐ろしい力だ。シャッターを切った瞬間、被写体を過去にして、現像された物は後世に残る。動画とはまた違う。いま!っていうひと雫が過去の大海に流れていくのを器に取るんだ」
 男は少年のように瞳をきらきらさせて話す。
「いい感じで話してる所悪いんだけど、ごめん。1ミリも理解できんわ」
 ほんとに理解できなかった。いきなり難しくしやがって。やっぱり、写真は気楽に見ているのが一番だ。
 男は溜息をつきながら「誰に似たんだか」とぼそりと言った。
「あんたはなんで俺をおやじさんとまちがったんだ?」
 忘れていた(つもりの)自分の今生の大失敗を鮮やかに思い出し、右に左に往復ビンタを喰らった気分になる。コノヤロー。
「夜だったし、寝起きだったし。なにより裸眼だったもんで」
 裸眼?と男は聞くとまた豪快に笑い出した。
「裸眼ってだけでまちがえる奴がおるか、おもしれえ」
「だから裸眼だけじゃないって言ってんだよ!」
 しかし、男は真剣な目になって言い出した。
「そうだ、それだけじゃない。普段どれだけ会話してるんだ。どれだけそのツラあわせておはよう、つってんだ。ろくに顔も見てないんだろ。予定も知らないんだろ。まあ、それはあんたのほうのおやじにも言えそうだがな」
 全身の血がぎゅんぎゅん巡りだして、体がカッカした。怒りじゃない。恥ずかしいのだ。そしてそれを隠すための怒りなのだ。
「反抗期なんだよ、察してよ!」
「いいや、察さないね。あんた、取り返しつかなくなるぞ」
 恐ろしいほど真面目な顔に圧倒されそうになる。
「何がわかんの?こちとら母親死んでから死ぬほど気まずい生活してんだ。お父さんはいつまで経ってももぬけの殻だし、あんなツラばっか見てたらこっちの気が滅入る」
 声は震えながら、宙に霧散した。男はじっとこちらを見ている。
 不慮の事故。その言葉の虚しさと言ったらない。やり残したことなんて、考える手前で吐きそうになる。二度と、授業参観に母の姿が現れることはない。それでも思わず母を探す私の目線に気づく他の大人達は、そのかわし方を知っている。友達との約束も次第に無くなり、地元で頼る術はすべて失った。逃げるように遠くの進路先を選んでも、一番逃げ出したい家からは逃げられない。せめて、せめて父が再生すれば。何度思ったことだろう。
「私の気が滅入ったら...... 」
 その先を口に出せば、もう後戻りができない気がしていた。だから今まで言わなかったのだ。でも、もう遅い。閉じ込めたはずの私の悲鳴は喉を押し開けていった。
「もう、私たちは、立ち直れない」

「どっちが先なんだろうな」
 爆発した後の沈黙を破ったのは男だった。
「自分より不器用な奴を見ていると、自分がうまくできたり、逆に器用な奴を見ていると自分がぶきっちょになっちまったり。そういうのってあったことないか?」
 この話、どこで聞いたんだろう。聞き覚えがあるのだ。この声で。
「多分、どっちでもねえし、どっちでもあるんだ。相互作用ってやつかな。色んなタイミングとパワーの均衡が渦を生み出して、その針を振る。どっちに振れるかなんてのは、自由自在にできそうで、きっとそんなうまくできねえんだ。だって誰もが、いまを生きてるんだからな」
 いまを生きている、そうか...... 。
「ごめん、やっぱわかんないわ」
 そう正直に言うと、おーい!と男は空に向かって盛大なツッコミをいれた。それ、ダサいよ。超絶ダサくて、でも温かい。それはわかる。
「写真の話じゃねえが、あんた。いまを生きなきゃだめだ。あんたのおやじのこころが止まっているのと同様に、俺から見ればあんたも止まったまんまなんだよ」
 こころを止めた。そうなのか?私も、止まっているのか?
「シャッターを切るんだ、過去に。そしていまを生きろ。あんたは、どうしたかった?」

 カシャ。

 何があったんだろう。目の前がぼやけてまだよく見えない。裸眼だもんな。
 そう思って目をこすると、何かが触れる感触がした。
 眼鏡だ。そしてその向こうに...... 。
「―― おとうさん!」
 気が付けば父に飛びついていた。臭くも懐かしい加齢臭がした。父が帰ってきた。帰ってきたのだ。
 なんだかなあ。また視界がぼやけてきちゃってよく見えないや。わかることは、私が異常なほどわんわん泣いていたことと、それを見ていた周りの人たちが死ぬほど引いていたことと、お父さんがごめんごめんって言っていたこと。そして目の前にいるのがもう若くない父だということ。眼鏡もかけているしまちがいない。
 豪雨の中、私と入れ違いに父は家に帰ってきていたようだ。小学校に向かう道の中、ブロック塀にへばりつきながら歩く私の姿を見た父は頭の回線が一気につながったようだ。当の私はまさかの居眠り歩き。呆れてものも言えない。でもへばりついて、ってひどいなおい。
「ねえ、おとうさん」
 なんだ?と振り返る父が久しぶりすぎて照れくさい。
「通帳とか掛け軸とか全部忘れたんだけどさ」
「おい、うちに掛け軸はないぞ」
 父が笑っている。
「これだけは持ってきた」
 そう言って私は右ポケットに手を突っ込んだ。
 見せる前から父は目を見開いた。
 家族写真だ。
 私とお父さんと、お母さんの。
 父が抜け殻になったから、私が代わりに泣かなくなった。私が泣けなかったから、父が代わりに空っぽになった。それは、何のせいでもない。生み出された単なる渦なのだ。
「...... おまえなあ」
 目をうるませている父を見て、私も胸が熱くなる。
「あと、おとうさん」
 目をグーでこすった後、父が向いた。
「菅原信也って知ってる?」
 その時の父の顔ときたら。赤いのなんのって。
「なんでお前が、その名前知ってんだ!」
 しつこく聞き出して分かった。それは父が母にラブレターを書いたときの名前らしい。父の名前は小野和也だ。まじでだれだ。菅原は菅原道真から、信也は当時一番の二枚目俳優の名前らしい。一体、だれがわかるんだ。也、しか合ってないじゃないか。全く。

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