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健康だけが取り柄だったのに①

健康だけが、取り柄だった。
風邪を引くのは年に1回くらい、インフルエンザは気合いと根性でかからない、徹夜しようが仕事が楽しくて毎日出勤してた。

お給料は大好きなMAN WITH A MISSONのライブ・グッズや、愛車に費やしてた。
それなのに、突然転機は訪れた。

胸の違和感に気がついたのは5月頃。
左胸が生理前に硬くなり、生理が終わると柔らかくなる。でも、翌月の生理が来る頃には寝るのが難しいくらい痛くなった。

家族は誰も乳がん患者がいないし、きっと30代手前だからホルモンバランスが悪いのだと、きっと私は大丈夫だと思い込んだ。
家族にも相談できず、コロナの自粛期間中で近隣のクリニックは検査を拒否していた。

重たい腰を上げて、7月中旬にクリニックを予約。
電話でアンケートを答えたところ、検査ではなく受診にするようにアドバイスを受けた。

一人で行くのは怖くて、母についてきてもらい触診と問診。
キツいが美人な女医さんが、念のためにとマンモグラフィーとエコーを提案してくれた。
マンモスグラフィーも、エコーの結果もあまりよろしくないということで「精密検査」になってしまった。
そのため、採血と細胞摘出をした。

この時点では「癌の可能性があり」レベルだと思っていて、そこまで深く考えていなかった。
説明をしてくれた看護師さんも、「まだ癌と決まったわけではない」と励ましてくれた。

翌週、造影剤CTの予約を入れてその日は帰宅。
相変わらず採血はうまく取れず、看護師さん2人がかりで30分くらいかかってしまった。

万が一に備えて、会社では上司とチームリーダーのみ内容を伝えた。
みんな「きっと大丈夫」と声を揃えてくれて嬉しかった。

「私はきっと大丈夫、乳腺炎かもしれない」まだ癌でない可能性を信じて造影剤CTに挑んだ。
挑んだ結果、慣れない造影剤にクラクラしてしまった。

結果が出た8月1日(土)は、今でも忘れない。
予約時間になっても、診察室に呼ばれない。「きっと大丈夫」は、もう崩れていたのだ。

その日も綺麗な女医さんから、医療知識のある父と、諦めている私の3人が静かに結果を聞き入れる。
「細胞検査、造影剤CTの結果、HER2陽性です。残念ですが、クリニックでは面倒が見れないので、転院をお願いします。また、肝臓・皮膚・リンパにも転移が確認されていますので転院先で詳しく検査があると思います。」
紙に転移先と、癌の種類を書き出されて今後の話をされる。
「なんで私が?何も悪いことしてないのに、元気に動き回ってるのになんで?」そんなことが頭の中をグルグルと駆け回っていた。

「もう一点、女性には悲しいことですが、髪の毛を失う治療が必要です。」
その一言で、一気に涙が止まらなくなった。
看護師さんに付き添われ、待合室で書類の準備等を待った。

泣きながら現実を受け入れるしか無いと思い、Twitterに思いを書き殴った。
「死んでたまるか。」

週明け、先に話していた上司たちには結果を伝えた。
「会社のことは気にするな、とりあえず治せ、生きることだけを考えろ。」上司の言葉を今でも鮮明に覚えてる。

8月7日(金)転院先の病院に。
この時すでに、仰向けで寝るのが辛い、呼吸がうまくできない、脇腹が異常に痛い違和感があった。
恐れていた、沈黙の肝臓が大暴れしていたことを知ったのは、月末だった。

初日は一日中検査、検査のパレード。
マンモグラフィーは相変わらず痛くて、技師さんと「よっしゃ!がんばるぞ!」と声を出し合って乗り越えた。

泣きたくなったのは、エコー。
癌がある乳房は、確実に大きさを測るためにとても長い時間をかけてしっかり検査をする。
「ああ、私は本当に癌なのか」という現実を突きつけられるような、とても嫌な検査なのは覚えている。

肺活量を調べる検査は、気合を入れろと言われながら痛む脇腹押さえながら受けたのは記憶に新しい。

一日中入れられた検査を受け終わり、ヘロヘロの状態で帰宅。

後日、会社を休みながら造影剤CT、骨シンチ検査、再度細胞摘出など受けられる検査を受けた。
胸の細胞を取った日、珍しく両親揃って付き添ってくれた。
そして、検査の後に看護師さんから緊急面談を告げられた。
主治医の先生が、前日受けたCTの結果を見て泡を食って面談してくれたのだ。

「今すぐ治療をしないと、死んでしまいます。」夜の10時過ぎに、CT見てたら肝臓が数倍に腫れ上がり多臓器を圧迫していた。
幸いなことに、肺と骨の転移は見受けられなかった。
先生曰く、ここまで肝臓を好む癌は珍しいらしい。

この時点で、会社をかなり休んでしまっていた。自分のチームには告知をしていたが、お客様には伝えていなかった。
ドクターストップをかけられたが、翌日に会社に行き挨拶回り、その次の日には心臓検査、その次の日には1回目の抗がん剤治療の予定となった。

8月29日(金)ここから私の闘病生活は幕を開けた。

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