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杉下右京の孤独と、僕が観たい最後

 あの”亀”が、特命係に返ってくる―――。

 2022年6月23日、テレビ朝日系ドラマ『相棒』公式Twitterは、同年10月からスタート予定のseason21において、初代相棒・亀山薫(寺脇康文)が5代目相棒として復帰することを正式発表した。

 古参も新参も、日本中のファンがこのビッグ・ニュースに歓喜の雄叫びをあげたことは言うまでもない。かくいう僕も報道を見て歓声を上げ、朝だというのにベッドの上で踊り狂った。

 しかしその一方、一部の勘の良いファンは、『相棒』がいよいよその長い長い歴史に幕を閉じようと準備をしているのかもしれない、と先を読んで不安になり始めているのも確かである。役者陣の年齢を考えても、それは大いにありうることである。
 そう考えた時、『相棒』はいかにして終わるのか、ということに関心が集まるのは当然だ。そこで、これを良い機会として、ここしばらく『相棒』というコンテンツについて考えてきたことや僕が望む結末について、書いてみることにした。


老いを知らない杉下右京

 早速簡潔に言ってしまえば、しばらく前から、僕は杉下右京(水谷豊)の「老い」「衰え」が観たいと思うようになった。

 これまで、杉下右京の老いや衰えをテーマにした回がまるでなかったわけではない。
 たとえば、s10#12「つきすぎている女」(脚本:古沢良太)では、右京が原因不明のスランプに見舞われ、右京らしからぬ頓珍漢な言動の数々を引き起こし、2代目相棒・神戸尊(及川光博)や鑑識の米沢守(六角精児)から心配される回がある(何が原因だったのか、未見の方にはぜひご自分の目で確かめていただきたい)。また、s18#20「ディープフェイク・エクスペリメント」(脚本:輿水泰弘)でも、ここ最近の右京が、天礼島でハイになって軟禁されたり(s18#1・2「アレスの進撃」)、重大な見落としをしてしまい危機一髪でなんとかテロを未遂に防いだ(s18#9・10「檻の中」)ことなどから、4代目相棒・冠城亘(反町隆史)に「推理力減退症候群」ではないかと疑われる。
 しかし、これらの回では、推理力の衰えが病としてではなく、すべて周囲の人間の杞憂に終わっているし、何より普段の天才っぷりとのギャップをコミカルに描き出すことに主眼が置かれているのであり、いずれも真正面から右京の衰えを描いたものではなかった。

 右京の並外れた能力は、頭脳ばかりでなく身体の面でも発揮される。
 s9#6「暴発」(脚本:櫻井武晴)はストーリーも素晴らしいが、組対5課のガサ入れに協力する冒頭シーンでは、大の男をいとも容易く投げ飛ばしたり取り押さえたり、僕のお気に入りのアクションシーンの一つでもある。
 s13#10「ストレイシープ」(脚本:真野勝成)では10名以上の武装した犯罪者たちに一人で果敢に挑み、s14#10「英雄~罪深き者たち~」(脚本:真野勝成)では、豪華客船の船室に潜んでいた刺客を大格闘の末に派手なプロレス技を決め、首を絞めて相手を気絶させている。
 また、『劇場版Ⅳ』(脚本:太田愛)では、北村一輝演じる国際テロ組織の一員を軽々と取り押さえた上に、銃を持って逃げるマーク・リュウ(鹿賀丈史)を追い、ビルの屋上まで駐車場の坂道をひたすら駆け上がるという、化物じみた持久力を発揮している。
 ちなみに、右京はこれまでs1#11「右京撃たれる 特命係15年目の真実」、『劇場版Ⅳ』、s18#11「ブラックアウト」で計3回拳銃で撃たれており、s1#10「最後の灯り」(←これも一見の価値ある傑作です)、s7#18「悪意の行方」、s13#10「ストレイシープ」で計3回スタンガンにより気絶させられており、s14#18「神隠しの山」では崖から滑落している。

 右京の尋常ならざる頑健な肉体は、今では完全に笑いのネタとして視聴者に消費されている。僕もまた大いにそれを楽しませてもらっているが、右京が不老不死であるかのようなイメージを強めれば強めるほど、後々収拾がつかなくなるのではないか、という一抹の不安に駆られてもいる。何しろ、杉下右京は、何十年も小学1年生の姿をした某探偵少年のようなアニメキャラクターではないからである。

 そう、僕は杉下右京を生身の人間として見たいのである。

4つの別れから見えてくるもの

 杉下右京は永久不滅だ、と信じている視聴者は多い。

 だが、今一度考えてみて欲しい。『相棒』という刑事ドラマが、土曜ワイド劇場の時代も入れて22年間という長い歳月をかけ、ここまで描いてきたものは何だったか。それは、杉下右京の「人間の証明」なのではないか。

 再三言い尽くされたことだが、杉下右京という一個の人間は、この22年で大きく変わった。人情を解さず、ロボットのように冷徹な孤高の天才から、理屈っぽく、時に茶目っ気すら見せる好々爺へ。その変化を「堕落した」と捉える視聴者も多数いることは確かだ。しかし、まだまだ記憶に新しいs20#20「冠城亘最後の事件―特命係との別離」(脚本:輿水泰弘)の、右京と亘の別れのシーンが、そうしたネガティヴな評価を一掃してくれた。

右京「僕はね、冠城君。これまで、去る者は追わず、来る者は拒まずでやってきましたが、今回、それを破ろうと思います。もう少し、一緒にやりませんか。……君が、特命係を去る事を、出来れば、拒みたい」
亘「…………最高の、はなむけの言葉です。長い間、お世話になりました」
s20#20「冠城亘最後の事件―特命係との別離」(脚本:輿水泰弘)

 まさに、杉下右京にとってのここまでを象徴する台詞である。
 いったい何が、彼をしてこうした台詞を言わしめたのか。冠城亘が最高の相棒だったから、というだけでは、ファンとしては、ここまで積み上げてきた冠城亘以前の『相棒』の歴史から目を背けるようで納得しがたい。
 亡き友人の遺志を継いでサルウィンに旅立つ亀山薫との、最後の短い電話を思い出してほしい。

右京「僕です」
薫「どうしました?」
右京「一言、言い忘れていました」
薫「え?」
右京「どうか、気を付けて行ってください。以上です」
s7#9「レベル4後編~薫最後の事件」(脚本:輿水泰弘)

 あるいは、神戸尊との次のような別れの台詞。

尊「車ですか」
右京「いえ、タクシーで来ました」
尊「じゃあ送りますよ」
右京「……やめておきます」
尊「どうして?」
右京「ようやく、一人に慣れてきたところですから」
尊「……では、またいつか」
右京「ええ」
尊「どこかで」
右京「ええ……。じゃ」
s10#19「罪と罰」(脚本:輿水泰弘)

 この右京の2回目の「ええ」が絶品で(これだから水谷豊ファンはやめられない)、またこの後に続く最後のシーンで、例のGT-Rでクラクションを鳴らして去っていく尊と、歩きながら車に向かって頭を下げる右京とのコントラストが素晴らしいのだが、それは一旦脇へ置いておくとしよう。

 並々ならぬ正義への情熱を若さゆえに持て余し、極悪非道な犯罪者に私的制裁を加えたことで世間を賑わせた「ダークナイト」とさして右京によって逮捕された3代目相棒・甲斐亨(成宮寛貴)は、伊丹・芹沢両刑事同伴のもと、ロンドンに旅立つ右京を成田空港まで見送りに来る。そこで交わされた会話も見てみよう。

亨「もはや、愛想が尽きたと思いますが」
右京「愛想尽きかけと言えば、ええ、いささか、自分に愛想が尽きかけています」
亨「え?」
右京「いえ、こっちのこと。然るべき時が来れば、また会えますよ」
亨「また、会ってもらえるんですか」
右京「勿論。二人はまだ、途中じゃないですか。……待っています」
s13#19「ダークナイト」(脚本:輿水泰弘)

 いかなる事情があれ罪は罪、という右京の徹底した法律至上主義者っぷりは、しばしば亀山薫や神戸尊との間にも軋轢を生んできた。そんな右京が過ちを犯した甲斐亨に投げかけたこれらの言葉は、彼なりの最大限の譲歩であり、許しであると言える。法を重んじながらも、亨の内面を見つめようとする目が、この時の右京にはある。

 歴代相棒との別れのシーンを見てきたが、別れが重なるごとに明らかに右京が感傷的になっている。最初は短い業務的な電話が精いっぱいだったのが、次は「一人に慣れてきたところ」と言葉とは裏腹の弱々しさを覗かせ、更に相棒の許されざる行為にも歩み寄る姿勢を見せ、そしてついに、去ろうとする相棒を引き留めた。これは、行き当たりばったりな脚本によるキャラクターの軸のブレ、ではない。徐々に右京が自身の感情を曝け出すことに対して躊躇しなくなっていることが見て取れる。
 思うに、右京は視聴者が期待するほど、もとから孤独に対してタフな人間ではないのだ。ただ、その感情を表現する術を彼は知らず、歴代の相棒と事件を解決していく中で、彼らから学び、体得したのである。亘を引き留めようとした右京の言動は、そうした特命係の歴史をまるごとひっくるめた上での、感情の爆発と捉えるべきだろう。
 視聴者は、そんな右京を長く見守り続けてくる中で、彼の孤独が実は慢性的なものであったことにじわじわと気が付き始めるのである。天才杉下右京も、自分と同じように凡庸な側面を持つ人間なのだと、今更のように気が付くのである。
 「杉下右京も人間である」。これこそ、『相棒』がシリーズを通して貫いてきたテーマであると僕は思っている。


薫の帰還は「終わりの始まり」

 しばしば「和製シャーロック・ホームズ」と評される杉下右京だが(s4#8「監禁」、s12#13「右京さんの友達」←いずれも傑作です)、三つ揃いの上等な紳士服を着込んだ慇懃無礼な小男というキャラクターは、むしろエルキュール・ポワロに近い。杉下右京の最後はどうなるのだろうと考えた時、僕の頭にいつも浮かぶのは、ポワロ・シリーズの最後にして、最も悲劇的な結末を迎える『カーテン』のことである。老いという意味では、エラリー・クイーンのドルリー・レーンものを挙げたほうが適切かもしれない。レーンにもまた、悲劇的結末が待ち受けている。

 何も右京にまで悲劇を、とは思わない。だが、杉下右京も人間であるならば、菩薩のように何もかも悟りきった顔をした超人ぶりばかり描くのでは物足りない。年を重ね、人格が解放されると共に、自身のままならない身体や解消されない悩みと向き合う右京の姿を、僕は見てみたい。
 亀山薫が帰ってくることの意味は、そこにあると思う。サルウィンに行く前までの右京と、現在の右京。彼がどう変わり、どう成長してきて、これからどう生きていくのか。薫の再登場によって、右京自身がそれらの事に対し自覚的になることで、『相棒』はシリーズ全体の総答え合わせとでもいうべきフェーズの「終わりの始まり」へと突入するのではないだろうか。

 とにかく、14年ぶりの2人の再会が待ち遠しい。相棒season21が最高のシーズンになることは間違いない。早く10月が来てほしい!!

https://youtu.be/tF55ZHZkHTU


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