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金のしゃちほこ

火曜に小田原城に行った時にふと思ったのですが、何故金のしゃちほこは大阪城にもあるのに名古屋城のイメージが強いのか疑問に思っていました。


そこで調べてみると、江戸時代を通じて残った金のしゃちほこは名古屋城だけとされているそうです。
その残った金のしゃちほこは東京の湯島聖堂で開催された1872年日本最初の博覧会に出展されて脚光を浴びたそうです。
その後、海外に渡り1873年のウィーン万国博覧会にも出展されているそうです。
これから考えると江戸時代には大阪城のしゃちほこは金じゃなくなってたって事ですよね?
徳川の豊臣嫌いがよくわかります(笑)


更に名古屋城と金のしゃちほこは信長と繋がっているそうです!
名古屋城の前身は、この地まで勢力を伸ばしていた駿府の今川氏が築いた城とされているそうです。
その城を奪って那古野城と名付けたのが織田信長の父の信秀だそうです。
信秀はこの城に居住したことがあり、信長はこの城で生まれたと言われているそうです。
その信長が、天守閣にしゃちほこを用いた最初の人物だとされているそうです。


ちなみに鯱とはベースとなる身体は魚で頭は虎、背中には幾重もの鋭いとげがあり、尾ひれは空を向きそりかえっているという想像上の動物だそうです。
中国の建築様式に見られる大棟の両端を上げたものが魚の形へと変化し鴟尾となったそうです。
そこへインドから伝わったマカラと呼ばれる怪魚が組み合されたのが鯱の起源のようです。 
マカラはインド神話に登場し、水を操り敵を防ぐ力を持つことから門や装身具の装飾に用いられていたそうです。
信長は安土城を建設する際に中国の禅宗建築、インドのヒンズー教建築、ヨーロッパのキリスト教建築などを取り入れたそうです。
これらの建築様式の一部として水を操る鯱を防火の守り神として信長は用いたのでしょう。





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