私的国語辞典_表紙絵2

私的国語辞典~二文字言葉とその例文~ セレクション73『芸(げい)』


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セレクション73『芸(げい)』(765文字)


                                                                      


「ねえ父ちゃん、この貝なに?」

背後から海斗の声が聞こえ、私はしゃがみ込んだまま振り返ると、そこには我が息子がたくさんの拾った貝殻で『店』を広げている所だった。

「ええと、その手に持ってるのは、サザエですね」

私が速答すると、海斗はぱあっと表情を明るくする。

「サザエさん?!へえこれがサザエさんなんだ。ならこれは?」

立て続けに目の前に出されたのは、如何にも貝らしい形の貝殻だ。
ハマグリよりも格段に小さい。

「それは、アサリですね」
「アサリ……ふうん、そっか」

私の応えに、口を尖らせて澄ました顔を見せる海斗。
サザエさん一家じゃない事にご不満のようだ。

「ね、じゃあこれは?」
「ハマグリですね」
「これは?」
「ウニですね」
「じゃあこれは?!」
「惜しい、昆布です」
「ああもう!」

尽くサザエさん一家じゃない事に納得できないのか、白熱した海斗は「また探して来る!」と元気良く叫んで駆け出して行く。

「海に近づいちゃだめですよ」

私は海斗の走り去る背中に声をかけるが、この海岸なら何処に行っても目が届くので、まあ大丈夫だろうと再び潮干狩りを始めた。




数分後。


「とおちゃあん……たすけて……」

背後から聞こえてきた海斗の情けない声に慌てて振り向いた私は、思わず「ひゃあ!」と腰を抜かした。


海斗がホームベースの形をした光沢のある焦げ茶色の仮面を被っていたからだ。

「なんですか、何の芸ですかそれは」

私のあわあわしたツッコミに、海斗は 「とおちゃあん……」と情けない声を漏らしながら、助けを求めるように、のろのろと両手を前に出してくる。

そこにきて初めて、私はようやくすべてを理解した。




「……海斗くん、それはカブトガニですね」
「とおちゃあん、取ってえ。何も見えないい。わしわしされて気持ち悪いい」

情けない声を上げ続ける海斗に私は苦笑いすると、起き上がって彼に近づいていった。


(765文字)


『芸(げーい)』
1 学問や武術・伝統芸能などの、修練によって身につけた特別の技能・技術。技芸。「―は一生」
2 人前で演じる特別のわざ。演芸・曲芸など。「猿に―を仕込む」

(大辞林より引用)

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