私的国語辞典_表紙絵2

私的国語辞典~二文字言葉とその例文~ セレクション12『飢え(うえ)』


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セレクション12『飢え(うえ)』


「ええそうよ。私は愛に飢えてるの」
悪びれる事も無く言い放つ華織に、正樹は憤りを隠せずにいる。
「だから、猛を捨てたのか。そんな理由で」
「ええ。愛がない関係なんて不用だもの」
しれっとした表情で華織は応える。正樹は怒りを抑えるように、目の前のすっかり冷え切ったコーヒーを一気に飲み干す。
「だから、猛さんには申し訳無いけど、よろしくお伝えくださいな」
華織の言葉に、正樹のカップを持つ手がびたり、と静止した。
「待て。あんたは猛に何が有ったか知らないのか」
正樹の問いに、華織は不思議なものを見るような目で応える。
「ええ何も。猛さんが何か?」
正樹は華織を観察するが、少なくとも彼の目には、彼女が嘘をついているようには見えなかった。
「……死んだよ。3日前に」
「あら……」
正樹の言葉が予想を超えていたからか、華織は目を見開き絶句する。
「泥酔してマンションのベランダから転落したらしい。体内から大量のアルコールが検出されたそうだ」
「アルコール、ねえ」
華織は一言呟くと、何かを思案するように黙り込む。
「部屋の内部は争った形跡も、何かを取られた形跡もない。リビングには大量のワインの空き瓶が転がっていたそうだ」
「ワインですって?」
華織が驚いたように顔を上げると、神妙な顔の正樹と目が合った。
「そう、ワインだ」
「でも、猛さんってワイン嫌いだったはずじゃ」
華織の問いに、正樹は無言で頷いた。
「仕事仲間の話では、ここ一月ほど、あいつかなり荒れていたようだが、先週辺りから急に大人しく――というより、何かに怯えるような様子になっていたらしい」
「猛さんの荒れた姿も想像できないけど、あれだけ嫌いだったワインを浴びるように飲む猛さんも想像できないわね」
思案顔で呟いていた華織は、ふと思い付いたように顔を上げた。
「もしかして、あなたが会いに来たのって、私のアリバイでも聞き出すつもりで?」
華織の問いに、正樹は肩を竦める。
「まあね。どうせ近いうちに警察も来るだろうけど、猛の事は俺が始末付けるべきだと思ってね」
正樹の答えに、今度は華織が肩を竦める。
「まあ、さっきの様子で、あんたじゃ無いのは解ったから、他を当たってみる事にするよ」
正樹はそう言って立ち上がり、レシートを手に取った。
「……なぜ?」
華織がぽつり、と呟いたのが聞こえ、正樹はぴたりと立ち止まる。
「どうして私がやってないと?」
華織が正樹を見上げる。その表情は真剣そのものだった。
「簡単な話だ。あんたは絶えず誰かに愛されてたい女性で、今は猛の事よりも、新しい男を見つける方が大事だろう?それにあんたは、いくら愛に飢えていても、逃がした魚にまで手は出さないだろうからな」
正樹はそう言って、レシートをひらひらとはためかせ、歩き出した。


『飢え(うーえ)』
 1 飢えること。飢えた状態。空腹。飢餓。「―と寒さ」
 2 望み求めているものが満たされない苦しみ。「心の―をいやす」

(大辞林より引用)

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