私的国語辞典~二文字言葉とその例文~ セレクション51『棋士(きし)』
セレクション51『棋士(きし)』
彼は、碁盤を見詰めていた。
既に日は落ち、彼の居る床の間にも夜のどろり、とした闇がたゆたっていたが、彼は明かりを着けようともせず、ただ静かに碁盤の前に正座し、時を待っていた。
目の前の碁盤に展開されているのは、今日中断になった対局の、その最後の戦局である。
対局相手であった佐伯名人は、対局中に脳梗塞を発症し、今だ協会からは何の音沙汰もない。
そして今日の対局は、少なくとも中断するまでは、悪手も無く双方互角であり、恐らくは名人が倒れなければ、勝負手がまさにその時差されようとしていた筈であったと言うのが、彼も含め、大多数の鑑賞者の意見であった。
「佐伯さん、貴方の勝負手は、何だったんですかね」
彼の思わず出た呟きに、しかし応えるべき相手は居ない。
ふと。
窓の外から柔らかな月の光が差し込む。
眩しさに目を細める彼の視界に、黒い碁石が一つ。
その碁石に写っていたのは、満月。
「……そうか。その石か」
彼はぽつりと呟くと、左手で白い碁石を手に取る。
佐伯名人の白い石は、差し込む月の光を断ち切るように横切ると、
ぱちり、と、
先程の黒石の隣に着地した。
(462文字)
『棋士(きーし)』
囲碁、または将棋をすることを職業としている人。
(大辞林より引用)
ここから先は
0字
¥ 100
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?