私的国語辞典_表紙絵2

私的国語辞典~二文字言葉とその例文~ セレクション14『羽化(うか)』



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セレクション14『羽化(うか)』


『また観察してるの?』
僕は背後からかけられた声に、モニターを見つめたまま『うん』と返事をした。
モニターの向こう側に映っているのは、ワンルームマンションとか言う狭い部屋の1室。
その部屋の中央にあるテーブルに、一人の人間の女性が突っ伏している。
肩を震わせている様子や、スピーカーから微かに聞こえてくる音から推測すると、恐らく彼女は声を殺して泣いているようだった。
『今何ヶ月目なの?』
『3ヶ月。多分もうすぐだよ。今度こそこの目で見たいんだ』
『あら、羽化しそうなの?』
『多分。みんなの前で発表するんだから、ちゃんと羽化してくれないと困っちゃうよ』
モニターを見つめながら言う僕に、母はくすり、と笑うと『無理はしないでね』と優しく声をかけてくれた。
母親の励ましに僕は奮起し、さっきよりも更に気合いを入れてモニターを覗き込む。
(今度こそ見てやるぞ、羽化の瞬間)

『旧世代の人類の一部には、蝶のように羽化をするものがいる』
そんな都市伝説のような噂が、僕達の住むステーションには昔から存在する。
僕達大気圏外に住む新世代と旧世代が交流することが全くなく、彼等の事は旧世代の人間が作ったらしい衛星を経由して観察する程度でしか知らないんだから、そんな噂が流れても仕方ないのかも知れない。
僕はモニターを見つめながらマイクを持ち、レポートの続きを入力することにした。
『…その旧世代の人間は、噂に出てくる『さなぎ』と類似点がたくさん有った。
つまり、
・下を向いて歩いている。
・溜息をつく割合が多い。
・他の旧世代との交流が少ない。
・基本的に自分の住まいから余り外に出ない。
そして、
・時折、テーブルに突っ伏して泣いている。

以上の点から、彼女…以降、仮にアゲハと名付けよう…アゲハは間違いなく『さなぎ』であろうと推測できる…』

突然アゲハがむくり、と起き上がるのを観て、僕は音声入力を一旦中止した。
アゲハは手近に有った箱から白い紙を取り出すと、半分に折り畳んで鼻をかみ、少し離れたところにあるごみ箱らしきものに投げ入れる。
普段ならここで溜息をつくはずだが、今夜のアゲハは少し違っていた。
何かを決心したかのように勢い良く立ち上がると、部屋着の上にダウンジャケットを羽織り、玄関へと歩き出したのだ。
『よし、いよいよだ』
僕は衛星のカメラを彼女にロックさせながら、拳を強く握り締める。そんな興奮状態の僕の事など知らないまま、アゲハは屋外に出て、ひたすら目的地に進んでいく。マップを確認すると、どうやら『バッティングセンター』に向かっているようだ。

うん、間違いない。これは羽化の前兆だ。
僕はわくわくしながら、アゲハを見守っていた。

結局アゲハは『バッティングセンター』で1時間ほど棒で球を打って過ごし、そのまま家に帰り始めた。
僕はその様子をモニター越しに観ながら、首を傾げる。
『おかしいな、特に羽化らしき事はしてなかった気がするけど…』

アゲハは明らかに先程とは変わっていた。表情は明るく、足取りも軽く、背筋はまっすぐに伸びている。美しさすら感じる。
それはまるで、羽化した揚羽蝶のようだった。

『え?僕、何か見落とした?』
慌てて映像をプレイバックするが、特におかしなところはない。
『有るとすれば、球打ちの途中で異種の旧世代人と会話してた位だけど…んん?』
良く見ると、会話の途中から、アゲハの雰囲気が変わっていた。
『いやでも、これはただの…』

…ああ。そっか。
羽化』の噂とは、そのものズバリな不思議現象じゃなくて、単に『旧世代人は精神的にどん底に落ち込んでも、自力で立ち直る種族である』と言う格言のようなものなんだ。

『なんだよもう。発表は出来るけど…つまんねえなあ』
馬鹿らしくなって大きく伸びをする僕。
モニター上には、力強く歩き続けるアゲハの明るい笑顔があった。



『羽化(うーか)』
 [名](スル)
  1 昆虫が、蛹(さなぎ)や幼虫から、成虫になること。→蛹化(ようか)
  2 「羽化登仙(うかとうせん)」に同じ。

(大辞林より引用)

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