私的国語辞典_表紙絵2

私的国語辞典~二文字言葉とその例文~ セレクション15『雨後(うご)』


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セレクション15『雨後(うご)』


(SIDE A)

雨は嫌いだ。
濡れるし。暗いし。
雨具持ち歩くの面倒だし。
会話が湿っぽくなるし。
湿度上がってじめじめしてるし。
カビ生えるし。

「――ツキも落ちるし、ね」

私はポツリとつぶやくと、冷めきったコーヒーをやむなく口に含みながら、窓の外の景色を一瞥した。

ここは高台にある小さな喫茶店。
私はこの喫茶店を『避難所』と呼んでいる。

晴れた日は窓際の席から見下ろす夕暮れの美しい町並みを見て仕事の疲れを癒し、雨の日はそれこそまさに雨のもたらす憂鬱な気分を紛らわすための『避難所』として、この店を利用しているのだ。

もともとこの店はマスターの煎れるコーヒーとホットサンドで有名な店なのだが、だからこそか、夕方に店に来ると思ったよりも閑散としていて、だから私も安心していつもと同じ席を利用することができていた。
(ありがたいけど、経営大丈夫なのかな、マスター)
ふと見上げると、堺雅人似のそのマスターは、彼の特徴であるのほほんとした笑顔を振り撒きながら、カップの手入れをしている。
(……まあ、私が心配することじゃない、か)
私は一人納得し、近づいてきた奥さんに新しいコーヒーを注文した。
(少なくとも、今の私よりは大丈夫だろうな)
颯爽と歩き去る奥さんの後ろ姿を見ながら、ふとそんな事を思った。

雨の日は、大抵ろくなことがない。
両親が離婚を決めた日も、最初の彼にこっぴどいフラれ方をした日も、仕事で大失敗してクビになりかけた時も、
――そして夫と子供が事故で亡くなった日も、いつも雨が降っていた。

だから、雨の日は何をしても上手くいかない。
大抵失敗して一人でへこむ事になる。

(トラウマ、かなぁ)
コーヒーを持って来てくれた奥さんに礼を言いながら、私は物思いにふける。
外を見ると、雨が止みはじめたのか、街の所々を日の光がスポットライトのように照らし出していた。

ふと、背後に何かの気配を感じた。
(――ん?)
座ったままで肩越しに振り向いてみるが、そこには誰も居ない。
(気のせい――あら)
身体を戻しかけた私の耳に聞こえて来たのは、足元からの荒い鼻息。
視線を下に向けると、そこにはゴールデンレトリバーが1匹、お座りをしてこちらを見上げている。
(あら、ジョーじゃない)
ジョーはこの店のマスコット犬で、いつもはレジの付近でお客さんに愛想を振り撒いているのだが、たまに元気のないお客さんので励ましている姿を見かけていた。
(そっか、励まされてるのか、私は)
彼の優しい気遣いが、憂鬱だった気分を少し癒してくれる。
私は感謝の気持ちをこめて、出来る限り優しく微笑んで、頭を撫でてあげた。
嬉しそうに目を細めるジョーが可愛くて、何かあげたくなるけど、
――ああもうツイてない、何も持ってないや。

「ごめんね、何もあげられるおやつは持ってないの。申し訳無いけど、他のお客さんの所に行ってね」

私がそう詫びると、彼はがっくりと頭を垂れてトボトボと歩き去る。
その後ろ姿があまりにもコケティッシュで、私は思わず吹き出した。

にこやかに微笑む奥さんに軽く会釈をし、少し気落ちしているように見えるジョーの頭を撫で、私は店の外に出た。
既に雨は止み、雨後のひんやりとした風が私の背中をそっと押してくる。
(雨の日も、案外悪くはないかもね)
家に帰ろう。
私は大きく伸びをしてから、まっすぐに歩き始めた。

明日はきっと、快晴だ。


(SIDE B)


外は、雨が降っている。
彼女は飲み干したカップを玩びながら、ぼんやりと雨に濡れる街を見下ろしていた。

ここは高台にある小さな喫茶店。
窓からの景色が美しい事がポイントとなり、特に窓際の席はいつも客で埋まっている。
その客の中でも、特に良く来店するのが彼女だった。

年齢は20代前半…といったところだろうか。すらり、としたスタイル、すらり、とした頬に印象的な切れ長の瞳が日本女性らしさを醸し出す。
彼女はお昼過ぎにふらり、と現れ、コーヒーを何杯か注文した結果、太陽が沈みきった事を確認したかのように7時前には店を出る。
そして出る時には必ず、私の頭を撫でてくれるのだ。

失礼、言い忘れていたが、私はこの喫茶店の世話になっている、ゴールデンレトリバーのジョーだ。悪党からはゴールデン・ジョーと呼ばれている。
私の仕事は主に客への挨拶と不審者の対応…まあ要するに、用心棒だ。
ああもちろん、私は容姿にも自信が有るので、客にちやほやされるのも想定内なのだが、彼女の場合は他の客とは少し違う所が有る。
その違いが何なのか解らないからだろうか、私は気が付けば店に来る彼女の姿を目で追うようになっていた。

彼女の毎日のリズムを見ていて、一つ分かった事が有る。
雨の日には、先程のようにカップを玩ぶ事が多くなるのだ。
恐らく彼女は、雨の街に何らかの辛い思い出があるのだろう。そして、その思い出を忘れる事が出来ないでいる。

私の中で、何かが締め付けられるように感じる。
彼女を助けたい、と私のハードボイルドが疼き始める。

私は彼女の席に近づいて、彼女を見上げる。
彼女は悲しそうに薄く笑っていたが、私に気が付くと、優しく微笑んだ。
そして、いつものように優しく撫でてくれる。

よし、私の気持ちが通じ…

「ごめんね、何もあげられるおやつは持ってないの。申し訳無いけど、他のお客さんの所に行ってね」

…通じなかった。
私は仕方なく、定位置に戻る事にした。

まったく、人生はハードボイルドだ。


『雨後(うーご)』
 雨の降ったあと。雨上がり。

(大辞林より引用)

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