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『かりそめの世界で僕たちは』

朝、目が覚めたら隣に知り合いの女性が眠っていた。

その寝顔をぼんやりと眺めながら起き上がり軽く伸びをすると、僕はベッドからずり落ちるようにして立ち上がって、そのまま右手をまっすぐに前に伸ばす。
伸ばした右腕に拡散した太陽の光が反射し、そのまぶしさに目を細めながら、いつものように人差し指で空中に大きく『M』を描くと、軽快な効果音とともに視界にブルーの透過ウィンドウが開く。
表示されたメインメニューを人差し指でタッチし『ログアウト』と書かれたアイコンを表示させると、僕はもう一度ベッドの上の女性に目を向け、そしてゆっくりとアイコンをタッチした。


『かりそめの世界で僕たちは』
作 ならざきむつろ


(……ふう)

まただ。

僕はVRゴーグルを外すと、真っ暗な自分の部屋の中で一人ため息をつく。

数日前からゴーグルに接続されたサーバーの調子が悪いせいで時間設定が現実の時間と半日ほどずれてしまっていて、それを分かってはいてもゴーグルを外した瞬間に感じるこのめまいに似た感覚のぐらつきに慣れることはない。

(まったく、運営もちゃんとやってくれよな)

僕は自分を取り戻すようにもう一度ため息をつくと、汗臭いシャツの不快な匂いに顔をしかめながら、ふらつく足で洗面所に向かった。



バーチャルリアリティ。
そんな言葉が未来という『夢』の先駆者のように扱われていたのは、いったいどれくらい昔の話だろう。

21世紀も半ばまで来たこの世界――バーチャルリアリティが日常の一部と化しているこの世界において、50年以上前に熱く語られていたさまざまなSF的夢物語は『仮想世界』というもう一つの『現実』によってほぼすべて実現されていた。

ゴーグルに取り付けるオプションによって、仮想世界に居ながらにして現実の肉体の健康維持も可能となったこの時代において、現実世界とは『現実の自分』という存在を再確認するためだけにのみ存在している――そう豪語する者まで現れている時代。

それが、この2030年という時代であった。


(水道――止められてないよな)

ようやくたどり着いた洗面台で蛇口をひねろうとして一瞬手を止めた僕は、しかし馬鹿な、と苦い笑みをうかべつつ思い切りひねる。
蛇口から勢いよく流れ出てきた冷水が栓をした洗面台に溜まっていくのを見つめながら、僕はしかしあちらの世界に残してきた彼女のことを思い出していた。



知り合いの女性。
あの隣に寝ていた女性のリアルにおける情報を僕は知らない。

『彼女』とは数日前にあちらの世界で知り合った。
夜の酒場で一人飲んでいた僕の隣に座ってきた彼女となぜか話が弾み、その勢いで一夜をともに明かし――

そして、その次の日の朝から彼女は僕のベッドの上で眠り続けているのだ。
一度も目が覚めることなく、静かに、こんこんと。

そう、まるでそこに『彼女』が存在していないかのように。



(ほんと、いつになったらログインしてくるんだろ)

顔を洗ってリフレッシュした僕が再びこちらの世界にログインすると、やはり彼女は先ほどと変わらずベッドの上で眠っていた。
僕は特に深く考えもせずに、横になっている彼女の頬に触れる。

(温かい。――当たり前か)

僕はその柔らかい頬をすっと撫でながら、ふっと力なく笑う。

死の概念が存在しないこちらの世界では、だから『死者』が存在しない。
もし現実でユーザーが死んでしまったとしても、アバターそのものはこの世界に残っている。ユーザー登録が完全に抹消された際にはそのアバターも『消失』するから、ともすればその間は彼らは『死者』と呼べるかもしれないけど――。

(そもそもログインしてない間もアバターはこちらに残っている、ってシステムがどうよ、って話なんだよな)

そう。
このシステムでは、ユーザーがログアウトした後も、こちらの世界のアバターはそのまま残されている。
もちろんそれは『肉体から魂が抜けた』ような状態ではなく、はた目には眠っているようにしか見えないので、ログアウトしたアバターを見てもパッと見では気づかない。

眠ってるのか、それとも中の人はもうこっちに来ないのか。
それを判別するすべを、少なくとも僕は持っていなかった。

「まあ、どっちでもいいか」

僕はそう呟いて薄く笑うと、よっこいしょ、と立ち上がって鞄を手に持つ。

正直、中の誰かさんが死のうが、その結果部屋に眠るあの『女性』が消えてしまおうが、僕にとっては大した話ではない。むしろ――

そう、むしろ。

そうやってどちらの世界からもログアウトできるのであれば、幸せそのものじゃないかとまで思えてしまうのだ。
この、虚構に支配された世界からログアウトできるのであれば。

「長く生きていても、良いことなんてないからなあ」

鞄を背負い、玄関で靴を履きながら吐き出したその口調があまりにも年寄り臭くて、僕はふひ、と笑ってしまう。

そりゃ、ね。
口調が年寄り臭くて当然じゃないか。

定年退職してはや20年。
こちらの世界でいくら普通に生活できていても、現実ではベッドから洗面所まで行くだけで1時間を要するほどに肉体が衰えている僕だもの。

「ま、ほっといてもいつか死ぬんだからな」

そう呟いてふと、ベッドで眠る『彼女』へと振り返る。

『彼女』も僕と同じ――年金をすべてゴーグルと生命維持オプションにつぎ込んでいる、いわゆる『最下層高齢者』なのだろうか。
『彼女』はそしてとうとう、その寿命をまっとうした、ということなのだろうか。

「――ま、いいか」

考えるのが馬鹿らしくなった僕はそう吐き捨てると、ドアノブに手をかける。視界の隅に『今日の気温:34℃』と表示されているのを確認して、僕は勢いよくドアを開いた。

――さて、今日はなにをして遊ぼうか。

(了)


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