私的国語辞典_表紙絵2

私的国語辞典~二文字言葉とその例文~ セレクション6『仇(あだ)』

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セレクション6『仇(あだ)』

男は、自分の手下が次々と倒されていくのを、静かに見つめていた。
手下を斬らせる事で相手の刀筋を見極め、更に刀心を大量の血で曇らせるのが本来の目的であるとは言え、50人は居た手下の大半をほんの一時で地に伏せるその腕前は並ではない。
しかし、男の眼に浮かんでいるのは絶望では無く、むしろ歓喜の色であった。

男は心底嬉しそうに手下を次々と斬り殺している男を見ている。
その男、先程名を名乗った気がするが、彼は名など不要と、北辰一刀流の一人だとしか理解しなかった。

彼は、楽しみにしているのだ。

男の北辰一刀流が勝つか、自分の暗殺剣、示現真流が勝つか。
ここでこの男に勝てば、彼と以蔵が度重なる暗殺の日々の中で習得したこの暗殺剣が、一気に知名度を帯びる。
これは、剣の名を上げなくてはならない彼にとっては、人生最大の機会であったのだ。

幸いに、男は付き添いの餓鬼の仇討ちを手伝うために来ている。
本来なら御法度である仇討ちに加担したとなれば、例えこの場で斬り殺されても罪にはならない。

そう、この戦いは彼にとっても仇討ちであった。
幕府に刃向かい、それ故に守ってくれる筈のものの手で壮絶な最期を遂げた相棒、岡田以蔵の仇討ちである。

故に、餓鬼には男が彼に斬り負けるのを見届け、世間に広めてもらわねばならない。
だから、餓鬼は殺さない。

彼の思いを知ってか知らずか、男は最期の一人を切り伏せると、平然とした表情で彼に向き直った。その落ち着き払った姿に、彼は男の潜った修羅場の数を見た。

恐らく勝負は一瞬。

以蔵と編み出した彼の示現真流は、従来の示現流と同じく、一撃で勝敗を決めるための剣技であるが、全ての力を速く刀を振ることに注ぎ込み、誰よりも速く敵を斬る事が出来る。

更に言えば、彼の剣技を男は見たことが無い。

彼はにやりと笑い、刀を構えた。

「やはり、以蔵殿のお身内か」

男の呟きに、彼が一瞬固まる。

改めて男を見るが、その顔にまったく見覚えが無い。

「まあ良い。済まぬが、これも縁と思い、成仏下され」
男はにこやかにそう告げると、ゆっくりと刀を構えた。

彼は鼻から息を一気に吸い込むと、強烈な気合いと共に全身で大地を踏み締める。
男は静かに刀を正面に据え、彼を見詰めている。

そして、彼は大地を蹴った。


『仇(あーだ)』
 《室町時代までは「あた」》
 1 仕返しをしようと思う相手。敵。かたき。「親の―を討つ」
 2 恨みに思って仕返しをすること。また、その恨み。「恩を―で返す」
 3 害をなすもの。危害。「親切のつもりが―となる」
 4 攻めてくる敵兵。侵入してくる外敵。
 「しらぬひ筑紫(つくし)の国は―守る押への城(き)そと」〈万・四三三一〉

(大辞林より引用)

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