祖母たちの思い出

なんと今年、祖母が100歳を迎えた。
コロナ禍で躊躇われたけど、少しだけお祝いもした。

祖母は7人兄弟(いや、8人か?)の長女で、私も正確にどこに誰がいらっしゃって、ご存命なのは何名かなども把握できていないのだけれど、数年前までは親族イベントの都合で祖母とその妹たちとランチをいただくことがたまにあった。
そこに参加する孫世代は私一人だったので、その時聞いた昔話は、私がどこかに記録すべきなんじゃないかと、今更に気づいたのです。

いや、もうすでに色々記憶怪しいけど。

娘時代の祖母たちは、大阪の南の方に住んでいて、それなりの大きな商家だったらしい。当時、インドと貿易をしていたとか、お手伝いさんやら書生さん?やらがたくさん出入りしていたとか、家の周り中全てがその家が持っていた貸家だったとか、そんな話を何度か聞いた。
池のある庭があって、犬も猫も飼ってたって言ってたっけな。

戦時中はその庭に畑を作って、祖母が色々育てていたらしい。よく聞く、芋の蔓とかなんでも食べた、というような話もしていた気がする。

大阪大空襲の時は、その少し前に妹たちと母親が心斎橋に出かけていて、空襲が来ると言われて地下鉄に逃げ込んだらしい。
その時、もう南行きの地下鉄はなくて、仕方なく最後の梅田行きに乗って逃げ、翌日梅田から焼け野原を歩いて家まで帰った、あちこち焼けていてそれは壮絶な光景だったと言っていた。もちろん、詳しくは教えてくれなかったけれど。(そしてその経験を話してくれた祖母の妹の1人は、もうこの世にいない)

家は無事だったらしく、そのまま終戦を迎え、今度は駐留軍の皆さんに「日本人の暮らしを見せる役割」が回ってきたから、金屏風たてて緋毛氈ひいて、振袖着て琴とか弾いて見せたなんて話もしていたなあ。(それは普通の日本人家庭ではない気がするがw)
しかし戦後の税制改革か何かで、あり得ないくらいの税金を請求され、持ってた貸家を全部売って大八車に札束積んで納税に行ったんだって。そしてそこからは、いわゆる「普通の」生活になったみたい。

機会があれば、もっとこういう話を聞いておいた方がいいんだろうな。
今は全然、会いに行けないけど。

ちなみに祖父は、体が弱かったのと字が非常に上手だったのとで、ギリギリまで戦地に行かずに済んでいたが、最後の最後でちょっと行った、ってな話を祖母か誰かからチラッと聞いたきり、本人からは何も聞かないままに、もうずっと前に亡くなってしまった。
もっと話をしておけば良かったと思うのは、私がこの歳になったから、というのもあるんだろうなあ。

終戦の日に寄せて、取り止めのないメモ。

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