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「感じるオープンダイアローグ」でダイアローグ

HR(Human Resource)関連の皆様(私を含めて8名)と、毎月1回、読書会をしています。

翌月の担当者がお勧め本を数冊提示し、投票で1冊を決めて、翌月、担当者が決めたテーマで語ります。

今月は私の担当。

今年4月に発売された森川すいめいさんの「感じるオープンダイアローグ」が選ばれました。

選ばれた理由の多くは「自分では選びそうにない本だから」

読書会の良いところは、自分だけでは出会えない本を読む機会に恵まれることだなと、改めて思います。


今回はこの書籍を使ってダイアローグ(対話)をしたかったので、Zoomをいつもとは違う設定にしてもらいました。

「セルフビューを非表示」

これは、以前に非構成の場に参加したときに実施してみたのですが、私にとってはお話ししている相手に集中できるとても良い方法でした。

今回実施してみて、メンバーからは「少し居心地が悪かった」というコメントもありましたが、それも大切な「今・ここ」の感覚

セルフビューが見えないこと(いつもと異なるパターンを経験すること)で起こった気持ちのざわめきはどこから来るのか?

そんなことに思いを寄せてみれば、新しい自分の発見につながるかもしれません。


1.アイスブレイク〜どの椅子に座りたい?〜

それはさておき。

アイスブレイク的な対話として、帯に描かれた素敵な椅子をテーマにしました。

あなたは、どの椅子に座ってこのダイアローグに参加したいですか?


お一人ずつ、座ってみたい椅子とその理由を話しました。

同じ椅子を選んでも、イメージする素材や肌触りが違っていたり、自分では選ばない椅子を選んだ方の理由が興味深かったり。


続いての対話テーマは、「気になった箇所」「そこから想起される思い出や感情」

事前に「この本で最も気になる箇所をひとつ選んでおいてください」とお願いしておきました。

ここからは、選ばれた箇所について、ピックアップしてみます。

そして感想は、選んだご本人のものではなく、私のものを記します(読書会の場における守秘義務や心理的安全性を確保するため)。


2. 私は、どのような人間関係を築きたいか?

岡さんは、自殺希少地域で発見した言葉を紹介してくれた。
「人間関係は疎で多」「ゆるやかな紐帯」「近所づきあいは挨拶程度、立ち話程度」「右へ倣えを嫌う」「病は市に出せ」「学歴とか肩書でなく、人物本位」......。(P.47)

ここで紹介されている岡檀(おか・まゆみ)さんの本を、実は数年前に読んでいました。

修士課程の学生だった頃、指導教員から「博士論文が本になるってこんな感じだよ」と紹介されたのがきっかけでした。

当時私は地域研究をしていて、岡さんの綿密な地域調査に感嘆しながら読みました。

今の研究テーマはメンタリングですが、離転職や複業が一般的になってきた昨今では、組織内の「強い紐帯(つながり)」と、組織外の「弱い紐帯」のバランス感覚がとても重要になってくると、研究を通じて感じています。

どんな人と強いつながりを持ちたいのか、どんな人やコミュニティと弱いつながりを持ち続けるのか。

そんな意思決定が重要になる時代なのではないかと思いました。

もちろん、その意思決定のためには「どんな自分でありたいのか」を常に問い続ける必要があるのでしょう。


3. 自分の内面に深くダイブするとはどういうことか?

私は精神病院に勤めていた頃、ある先輩医師から「自殺念慮のある人や統合失調症の人の話は聞くものではないよ。患者さんの具合が余計に悪くなるから」と何度か注意されたことがあった。話せば気持ちが少し開く。それが、かえって危険だという理由からだった。密に助ける、しかし話は聞いてはいけない。それは管理するしかないということなのか......。(P.48〜)

開けたくない心のふたが開く、という体験をしたことがあります。

エニアグラムの講座での出来事でした。

すでにエニアグラムも自分のタイプも知っていて、ようやく本格的にエニアグラムを学ぶために、信頼する知人が開催する3日間のプライマリー・コースに参加したときのことです。

参加者の皆さんとワークをしているうちに、ふと、「なぜ自分がこのような言動を取りがちなのか」という理由の、心の奥深い部分に気がついてしまいました。(注:気づくタイミングや気づき方は人それぞれなので、あくまでご参考までに...)

自分の心の奥の奥に、箱に入れて大事にしまっていた感情が動き出し、その箱のふたがパタパタと動くのです。

開けたくない、という気持ちと、開けてあげたい、という気持ちが拮抗しました。

たまたま、畳のお部屋でのコース開催だったので、その日は部屋の隅っこに三角座りで縮こまり、めそめそ泣いて、心の奥にある箱のふたをどうするか、迷いました。

ファシリテーターのお二人も、参加者の皆さんも、そっと見守ってくれたのが奏功し、私はそのふたを開けて、奥底にしまっていた誰にも見せたくない気持ち(でも、自分でも意識できていなかった気持ち)を、みんなにそっと、打ち明けることができました。

そこから気持ちがとても軽くなって、生きやすくなりました。

私がメソメソ泣いているときは、もしかしたら人から見たら「具合が悪くなっている」時なのかもしれません。

だけどそれを感じ切ることができたとき、新しい自分になれるのではないか、というのが私の実体験からの感想です。

そして、そうした感情を感じ切るには、誰かの助けが必要です。


4. 私は「傾聴」できているか?

あるスタッフが、
「私の母は看護師で、当時のスタッフの一人でした」
と、母親から聞いた話をしてくれた。
「1984年の8月27日以降、患者さんやご家族との対話の場に、看護師も参加することになりました。最初はとても緊張した、と母は話していました。その場には医師がいて、心理士がいて。それまでは、看護師に意見を求められることはなかったそうです。それが突然、『あなたはどう思う?』と医師や心理士から聞かれるようになったのです。母は、最初は何も話せなかったと言っていました」
しかし、すぐに看護師たちは話をし始める。
「対話する中で、看護師たちは気づいていきました。医学を知っているのは医師。心理学を知っているのは心理士。だけど、患者さんとたくさん話をしているのは看護師。私たちが、いちばん患者さんのことを知っている」
対話の場は、全員が対等で初めて成り立つ。医療者の間に上下関係があることは、対話を阻害する。誰がいちばん偉くて、誰が意思決定する力を持つのか、そんな序列は排除されなければならなかった。対話の場に招待される人たちは対等で、その場に当人たちのことをよく知っている看護師がいなければ、その意義は半減してしまう。(P.75〜)

どうすれば組織にもっと対話が広がるのか、というのが、私の疑問であり、探求し続けたい部分でもあります。

この引用には、組織で対話が生まれにくい理由が含まれているように思います。

日本は特に、ヒエラルキーの社会です。

それはおそらく、小学生くらいの小さな頃から身辺にはびこり、浸透している根強いものです。

上級生と下級生、先生と生徒、親と子。

もちろん、たくさん経験している人から学ぶことは多いです。

ですが対話においてその上下関係を持ち込めば、ただ話す、ただ聞く、というシンプルなことがやりにくくなります。

より努力が必要なのは「上の立場」の人たちです。

「私の方が知っている」という思い込みを外し、本当に目の前にいる人に対し「あなたの話が聞きたいんだ」という気持ちでその場にいることは、実はとても難しいことだと思います。

ですが、できないことではありません。

ほんの少しやり方を身につけ、ほんの少しその経験を積めば、誰にでもできることだと思います。


5. 私はいったい何者なのか?

ケロプダス病院が用意してくれたプログラムに参加する中で、とても印象的だった言葉がある。
「あなたは誰なの?」
自分自身が誰なのか、それがわからなければ対話の場で、困難を抱えた人たちと対話の場を持つことはできない。ケロプダス病院のスタッフたちは、それぞれ自分の話を仲間に3年以上かけて聞いてもらい、仲間に理解され、理解されることを通して自分自身を理解し、同じように仲間を理解するというプロセスを経験している。(P.82)

私はいったい誰なのか。

この問いに私は、Points of You®︎の5日間の公式プログラム・L3(Turning Point Program)で向き合いました。

私の心の奥底にある、私が人生で本当に求める「ニーズ」みたいなものに向き合った5日間でした。

私の中にある困難な部分に触れ、認め、癒し、日常生活の中でも意識できるレベルにそれを引き上げてくるところまでが、私のL3でした。

ただしそのL3で、私は自分のことで精一杯で「仲間を理解する」というレベルには到達できませんでした。

しかし、私の奥底にあるニーズを日常生活でも感じながら、日々の中でそのニーズに応えようとしていくうちに、目線が自分の外へと向かうようになってきています。

今もまだ、仲間を理解するというプロセスの途中です。

ですがそこに向かえるようになってきたのは、「私は誰なのか?」という問いに真剣に向き合った5日間があったからだと思っています。


6. 話す勇気、聞く姿勢

その過程で、私は、自分のことを話すのはとても怖いことだと気づいていった。全力で自分のこころの中のことを話したあとに、それを評価されたり批評されたりしたらひどく傷ついてしまう。これまでの人生を否定されたのと同じ気持ちになる。自分のことを話すのは恥ずかしいと感じることもあるので、話すにはとても勇気がいる。その勇気を台無しにする聞き方があるのも体験した。話すことも聞くことも、本当にエネルギーが必要だった。私は自分のことを話したあとは、いつもひどく疲弊した。(P.94)

「期待しない、判断しない」

Points of You®︎の公式プログラムには、人の話を聞く機会がたくさんあります。

そのときにファシリテーターとして伝えていることでもあり、私自身、人の話を聞くときに念頭に置いている言葉が「期待しない、判断しない」です。

期待や判断されることで私自身が傷ついた経験もありますし、その態度により人を傷つけたこともあります。

ですが、そうした傷つけあいがなぜ起こるのか、という点については、その視点にフォーカスして教えてもらい、そしてそれを自分で体験していくしか理解する術はありませんでした。

今もまだ、期待したり判断したりする自分はいます。

人間である以上、それはぬぐいようのない感情なのかもしれません。

しかし、自分は期待したり判断したりする、ということがわかっているだけでも、以前の自分と比べれば、人と豊かなコミュニケーションを交わしていけるスタートラインに立てたように思えます。

話してくれた人の勇気を台無しにしない聞き方を、これからも鍛錬していきたいと思っています。


7. 私はどのような幼少期を過ごしたか?

子どもの頃のことを話すセッション(P.122〜)

キャリアカウンセラーの界隈ではサビカス博士が有名で、彼の提唱したキャリアストーリーインタビューでは、幼少期の思い出を語ります。

これにより、マイクロナラティブ(小さな物語)を客観的に語り直すことで、自分の経験してきたことに意味づけをし直すことができます。

スティーブ・ジョブズ氏の有名なスピーチにある「Connectiong Dots」みたいな感じです。

また、エニアグラムの書籍にも、「インナー・ワーク・ジャーナル」というワークが紹介されています。

これは、幼少期の頃からの自分について覚えていることを、三人称を用いて記録していくというワークです。

実際にエニアグラムを学ぶ仲間とやってみましたが、幼少期からしっかりと自分のタイプをやりきっている自分に出会えました。

それにより、そのタイプでいる私が陥りやすい罠に気がつくことができました。

本書では、筆者の「私の子ども時代は不幸だった」というイラショナルビリーフ(非合理的な信念)が、楽しかった思い出を語るうちに「豊かな幼少期」の存在に気づくことで変化していく様子が描かれています。

子どもの頃のことについて対話することには、他にもさまざまな効果がありそうです。


8. 私は私を許せるか?

I forgive me(P.124〜)

♪目にうつるすべてのことは、メッセージ♪

目の前に起こること、目の前に現れる人は自分の鏡だ、とよく言われます。

許せない人がたくさんいたり、許せないことがたくさんある場合は、自分に対しても許せないことがたくさんあるということです。

自分の中の「こうあるべき」も、イラショナルビリーフであるということがよくあります。

私の場合は、目上の人に厳しすぎるところがあります。

会社員の頃は、「働かないおじさん問題」にいつも憤慨していました。

それは、「私より年上でたくさんの経験をしていて、お給料もたくさんもらっているんだから、私よりもいい仕事をすべき」というイラショナルビリーフからくるものでした。

今となっては書いているだけでも恥ずかしいのですが、本気でそう思っていました。

しかし、そんな私に、シニア研究のお仕事が立て続けに舞い込み、たくさんの方にインタビューをさせていただく機会を得ました。

今思えば、神様が「あなた、そろそろそのイラショナルビリーフと向き合いなさい」とくれたチャンスだったのかもしれません。

インタビューを通じて一人ひとりの人生に触れたとき、私は、これまでの考えを改めました。

それと同時に、私のイラショナルビリーフが、私自身の首を絞めていることにも気がつきました。

インタビューは自分本位になりがちな私にとって、絶好の傾聴の場であり、相手の話にじっくり耳を傾けることのできる貴重な時間です。

話を聞くことでその人に寄り添える時間は、イラショナルビリーフを拭い去り、自分を許すきっかけとなる時間なのかもしれません。


9. 自然に対話が起こる関係性とは?

オープンダイアローグの目的地とは、自然に対話が起こることなのだ。(P.173)

対話する、ということは、結局どういうことなのでしょうか。

私の中でしっくりくる表現は、今のところ2つあります。

ひとつは「相手の靴を履く」、もうひとつは「溝に橋をかける」です。

前者はもう10年以上前、U理論の講座に参加したときに中土井僚さんがおっしゃっていて、苦手な人を具体的に思い浮かべ、実際に「相手の靴を履く」イメージを経験するワークもやりました。

相手の靴を履くイメージだけでかなり気持ち悪い感覚がありましたが、その感覚がかえってリアルに体に響きました。

私がどれほど相手のことを理解しようとせずに批判的な気持ちを向けていたのか、ということが痛いほどわかりました。

後者は埼玉大学経営学部・宇田川元一先生の著書『他者と働く』に書かれていました。

自分と相手の間にある溝に気付き、そこに橋をかけ、渡ってみること。

たまに渡ったまま帰ってこない人がいるので注意、という点もうなづけました。


先日、「対話が自然に起こる」事例を聞きました。

私がコロナ前までの2年間、Points of You®︎を使って対話の授業を行っていた小学校の校長先生と、久しぶりにZoomでお話ししたときです。

越境OKのその小さな小学校には、毎年何名かの転校生が校区外からやってきます。

人前で話すことに慣れていない転校生を見て、在校生の一人が「話すのが難しかったら書いたらいいよ」と促したそうです。

それは、私が対話の授業でいつも児童たちに伝えていたことでした。


例えば転校してきたばかりで情緒が安定していない子どもや、前の時間に勃発したケンカを引きずったまま授業に参加した子どもは、ワークに参加できないことがありました。

でも、私の授業はそれもOK。

ただし、必ず本人に「参加しなくてもOK、見ているだけでもOK、ここにいるのも辛かったら別の場所に行ってもOK。どうしたい?」と、自分で決めることを促していました。

「ここにいるだけ」を選択する子もいれば、「Points of You®︎のカードを選ぶ」ことまではやりたい、だけど気持ちの共有はしたくない、という場合もありました。

それでOK。

私は一応、その小学校でキャリアの授業をさせてもらっていましたが、やっていることは対話で、その際には「今・ここ」の気持ちを大切にすること、そして自分で決めることを最優先していました。

自分の思ったことを「伝える」ことが難しいとき、私は「無理して言わなくてもいいよ。もし紙に書けるなら書いてみよう。それも難しかったら、今感じていることを、心の中で味わってみて」というふうに伝えていました。


上記の「話すのが難しかったら、書いたらいいよ」のエピソードを聞いた時、私の授業を見て、感じて、実践してくれた子がいたんだ、と思いました。

その在校生の行動は、言い換えれば「判断せずに相手を待つ」こと。

相手の靴を履き、あるいは相手と自分の間にある溝に橋をかけたのです。

その転校生は、今では紙に書かなくても自分の意見をみんなの前で言えるようになったそうです。

こうした丁寧なやり取りの積み重ねが、安心・安全の場を生み出すのだろうと思います。


10. 職場で「対話」が起こるには?

本当ならば、職場での応用についても対話したかったのですが、90分の読書会ではそこまで至らずに終了。

しかし、それぞれが選んで共有してくれた箇所についてじっくり考えるだけでも、職場で対話をするためのヒントが生まれてきそうに思います。


私自身も、もっと学校や職場で、対話の場を作りたいと思っています。

いつかくるその日のために、自分を見つめる時間を持ち、相手とつながりの感覚を持つためのコミュニケーションを心がけ、対話のための素地を日々丁寧に作っていきたいと思うのです。


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