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お寺での修行生活とデジタルデトックス

4日ぶりにスマホを触った瞬間、私はこれまでなぜこの四角い物体に囚われていたんだろう、って思った。
どこに行くにも、家の中にいる時も、肌身離さず持っていたこのスマホさんと適度な距離を保つこと。

これが現代を生きる私たちにとって、いかに大切だったかを、この4日間で感じることができた。

静岡県浜松市にある龍雲寺では、禅堂があり、「一日一食断食生活」を体験することができる。3年ぐらい前に、ふとSNSの広告でみかけた私は、その時からずっと気になっていた場所だった。なんとなくだけど、ここ行ってみたい、がずーっと自分の中にあって。
今回、関東に引っ越したことを機に、お仕事のお暇もあわせて訪れることができた。これもご縁。

断食目的で来る方もいれば、お寺の生活を体験してみたいという方もいたり、ちょっといろんなことを忘れてゆったりしたい…など様々な人がやってくる。

私の目的は「自分自身と向き合いたい」だった。もともと禅の世界にも興味はあったし、これからの人生をゆっくり考える時間を取りたいと思っていたところだったから…ちょうどよかった。スマホから離れて、誰とも連絡を取らず、毎日お寺での修行を行う。

朝5時には目覚ましで起きて。
お経を唱えて、坐禅して。
住職の説法を受けてかは
梅湯をいただき、ストレッチ。
そのあとはフリータイムで各自が好きなことを
しながら、希望者はお寺のお仕事を体験できる。

写経したり、境内の掃除をしたり、
お墓のお掃除や、お庭の線引きをしたり、
仏話や仏像をじっくりみて、感じたり。

夕方には住職とのおしゃべりタイム。
みんなのお悩みをうけながら、
禅の話をきく。

そして、精進料理をいただいてから
坐禅をして、ストレッチをして、21時には就寝。

心だけでなく、身体もしっかりと
ほぐしながら過ごす3泊4日。とても濃かった。

この生活を過ごして何を得たかと言われれば、
一言で「今を生きる」というシンプルさに尽きる。
それは、「無」や「空」になるということに
近いかもしれない。

住職は言った。「人生は苦行」だと。
生きている限り、苦しみから逃れることなんて
できない。その時避けたとしても、またやってくる。
地球上に1人で生きていない限り、1日に15分は
必ずザワザワしたり、苦しみに出会う。

そして人はその苦しみから、
たった心の中の5%だけだった苦しみを
過去や未来のことを頭でどんどん妄想したり、
繋げたりして、100%にだってしてしまう。

だから、苦しみを苦しみだと受け入れなさい。
しっかりその時味わえば、その苦しみを忘れなさいと。

どんなに自分にとって大きな不安や憎しみ、
負の感情が湧き上がったとしても…
それは自分の心がそう映し出しているだけ。
外部からの影響は何もない。
嫌なことがあれば、嫌な人とと出会えば、
それは自分の心がそうみてるだけ。

坐禅をしている20分間は誰にも邪魔されない。
1日10分でもいいから、座って自分の呼吸だけに
意識をむけて、今を感じましょう、と。

何事も自分の「心」次第なのだなぁと。

ついつい暇があると、私はすぐにスマホをみてしまっていた。みたいわけでもないのに、暇を潰したいから、SNSをみたり、流れてくる動画をみたり。そこにはきっと本来なんの意味もなかったことに気がついた。

新幹線や電車に乗っている時。
何もせずにぼーっと外を見ている人が
どれだけいるだろう。

お寺を退所して、浜松から新幹線に乗ったとき、
ぼーっとしていたら私がこうして生かされている、
新幹線を動かしてくれる人がいて、
掃除をしてくれる人がいて、
動かしてる電気はそれを作り届ける人がいてくれて…
自分だけで生きているわけじゃないことを
より実感した。この日常だって、1人では生きられない。当たり前に存在するものではない。

「いま」に目を向けることによって、
生かされている、というありがたさを感じられた。

スマホをひらけば誰かとつながり、
いろんな情報が入ってくる。
仕事をしていたらパソコンを見ないといけないこともあるし、誰かと喋って、頭をフル回転させて、
頑張らなきゃいけない時だってある。

それが悪いことではないけれど…
0か100ではなくて50くらいのバランスを
とりながら生きることで、毎日の日常に
幸せを感じる瞬間がやってくるんだろうな。

そのためにも、適度なデジタルとの距離感を
これからも大切にしていこう。
そして、苦しみはその時にしっかり味わおう。

心が疲れすぎる前に、
日々坐禅をして、「いま」と「自分」に向き合う
時間をこれからもとっていこう。

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