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発達障害児2人のおかーさんが、あんまり明かさない胸中

うちの子2人は発達障害、共にADHDとASDの併発型で、上は中学1年、下は小学1年。どちらも情緒の特別支援学級に在籍している。

性格は正反対。無口で何にも言わなければ黙々と一人で何かしている長男と、TVアニメにすらも昭和の親父の如くヤジを飛ばし、なんでなんでなんで期がまだ抜けてない、スキンシップが大好きな次男である。ちなみに2人で親としての距離のとり方が違ってくるのがめんどい。

でまあ、通う小中学校の支援がやたら手厚い。

支援の経験のある担任をつけてくれて、マンツーマンで授業をさせてくれたり、こまめな連絡帳やら、困ったらば支援教室や担任を頼りなさい!と指導してくれるし、自立活動の授業もある。高級旅館の布団並みの厚さだ。


しかしそんな彼らに母たる私は一抹の危惧感を抱いている。

それは、現実社会や世界ってのは、「障害者が羨ましくていじめられ」「できない子は排除される仕組み」になっていることだ。

ここは田舎なので、進学する高校は事実上1つしかなくて、小学校から高校まで、大体同じ顔だ。今のところ、長男が障害のことで嫌がらせを受けたことは1度しかないし(その一度は、私が荒れ狂って大太刀周りをした)、次男はまだよくわからないけど、持ち前の明るさと愛嬌で学校の人気者らしい。(個人的には、自分が小学生で、クラスメイトに次男がいたらウザがりそうにせよ)

高校まではいい。それでいい。だが問題は、彼らが大人になり「大人からの支援」がなくなった時だ。

これは私の体感でしかないが、社会やら会社やらというのは、「できない子」に相当厳しい。いや、厳しくて当たり前なのだが、その「できなさ」のベクトルが「普通ならば」そう考えない・しないというジャッジを皆無意識にしていて、それが発覚すると「頭のおかしいやつ」と見做され、排除や無視…無視ならまだいいか。透明人間扱いされてしまう。

「障害者である」と公表した場合、何ができようができまいが、それは「障害者だから」ありきで扱われ、本人を見る人は少ない。それと、これが大きな問題なのだけれど、障害者だから補助やサポートしてくれ、と、会社側が誰かに頼んだ場合、大抵「何で自分(たち)がこいつの"お世話"をしなきゃならないんだ」という不平等感でいっぱいになるのだ。そして、目に見えて障害者をお荷物、邪魔者扱いして、障害者は肩身が狭くなる。


私は社会に障害者にも人権があるとか、合理的配慮の啓発に意味があるとはこれっぽっちも思ってはいない。だって健常者すら石や壁にしがみつくように生きてる中で、前に後ろに障害者がいたら、蹴り飛ばしたくもなるでしょう?それもわかっている。

だから、正直なところ、我が子らが無駄に自己肯定感を高めて社会で「こんなはずじゃない」と挫折を味わうよりは、もういじめや差別を味わうだけ味わって、滑落しそうに生き続けて、これが自分の評価だと諦めながらも何かしらの技能を身に着けて、食えるだけの生活をしていった方がよくない?とか思ってはいる。


障害児親として不謹慎・不健全かもしれないけれど、社会に信用や期待を少しもしないでいると、こんなふうにしか考えられない。


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