広がりが足りない?
信念。思想。哲学。
何でもいいけれど……なんだか自分の生き方に飽きてきた。退屈で、どうでもいいことのように感じてしまう。
定期的にそんな気分になる。その感情が自分のどれくらい深い部分から湧き上がってくるものであるのかは分からないし、そう感じる頻度自体は多分減ってきてるから、それほど気にしなくていいのだと思うけれど。
情報を伝達するのは大衆と、大衆の相手をする人の仕事だ。役に立つ情報というのは、誰かのものではなくて、場に共有される「みんなのもの」だから、それを私が語る必要はない。もちろんまだ誰も気づいていないことを最初に言うことは大事かもしれないけれど……なんか、それもどうでもいい気がする。結局早いか遅いかの違いしかないし、結局は誰かがやることだから。
誰がやってもいいことをわざわざ自分がやるっていうのは結局、それによって自分が何かしら利益を得たり気持ちよくなりたいからなんじゃないの。まぁどうでもいいことだけど。
役割。仕事。義務。やりがい。なんでもいい。私の頭を定期的に誘惑してくるそんな言葉たちを、私はどう処理すればいいのだろうか。
ティファレトを書いているときは、こんな余計なことで悩む必要はなかった。朝木海のときもそうだ。
ずっと体調が悪くて、吐き気ばかり綴っていた時もそうだ。そうしなくてはならないから、そうしていた。自分の内側から出てくる何かに突き動かされていたし、それに満足していた。
それに意味があったかどうかなんて知らない。でも、それは喜ばしいことだった。楽しいことよりも苦しいことの方が多かったような気もするけれど、それでも充実はしていたと思う。
目的というのは自分で設定するものではなくて、勝手に設定されるものなんじゃないかと思う。そして設定された目的に進むのに必要なのは根気ではなくて、健康。健康さえあれば、それを途中でやめることは、そう意志しない限りはない。
意志が必要なのはやめることにであって、続けることにではない。私は私の意思で何かを続けることはできない。結局は、その時の気分に従って生きている。そして、その時の気分に従った結果の方が、私にとっても、周りの人にとっても、いい結果が出ている。
体の働きや感情というのは、私たち理性的精神が思っている以上に優れていて、有能なのだ。私たちに足りないものなんてなくて、私たちが動くのは、失ったものを取り戻すためではなくて、自分のものではないものを自分のものにしたいからなのだ。
だから、心の奥底から湧き上がってくる欲求に従って生きてきたいのだけれど……その他でもない欲求自体が、いまいち湧いてこない。
やりたいことがない、というか、何をやり始めてもしっくりこない。すぐにやめたくなってしまうし、すぐにやめたくなってしまうものを続けてもいい結果は出ない。満足のいく出来のものはできない。
それでも頭はぐるぐる回ってしまうから、うまいこと脳を満足させるためにゲームをしたり文章を書いたりして、エネルギーを消費する。ストレスなく、脳が私に要求する一日の労働量を消費できる活動をする。
他の人の脳がどういうものかはわからないが、私の脳は長い間仕事をしていないと、私自身のことを悪く言い始める。まるで優秀な人間が、自分の能力にふさわしい仕事が与えられず退屈していると、周囲に当たり散らすように、私の脳は、私がちゃんと意識して使ってあげないと、私の心を締め付け始める。
難しいゲームはいい。嫌になったらすぐにやめていいから、ストレスも適度だ。苦労してクリアした時の多幸感は強すぎるので少し考えものだが。
逆に、脳を酷使し過ぎた後は、休ませないといけない。でもこれについては、気を抜くと勝手に休むから、あんまり意識しなくていい。
ただ中途半端に疲れているときは厄介だ。とりあえず外を歩いたり走ったりするといい。筋トレでもいいし、ヨガでもいい。気分が乗るなら、自慰でもいい。考えるのをやめて体の感覚に浸れるなら、なんでもいい。
性的な事柄は現代日本ではどこか触れづらいものであるから誰も言わないけれど、自慰と瞑想は少し似てると思う。
肉体的な快楽と欲望を利用して、意識的に理性の働きをストップさせることは重要だと思う。あと、色んな種類の快楽を知っていた方が、その時その時で一番効果的なものって違うから、うまく休憩できると思う。
アロマ炊くだけ、くらいがちょうどいい時もあると思うし、布団にくるまるのがベストってこともあると思う。近所の公園で寝そべるのもいいし、スケッチブックに意味不明な絵を描くのもいい。
重要なのは自意識から離れること。一時的に誰でもない存在になること。
というか私は……忘我状態が好きだ。だけどそれは、強い自我が前提にないといけない。自我を普段はっきりと覚えているからこそ、忘れた時に強い集中状態が訪れる。
なんでもいいけれど……最近の私はなんだか、意識と無意識のバランスが変わってきている。無意識の方に寄っているような気がするし、その方が心地よくいられる。無意識が強くなってきてくれてるのか、理性が弱くなっているのか……おそらくは、前者だ。理性は弱くなってない。弱くなっていたら、私をぶん殴ってくる客観的批判者の声は小さくなってるはずだから。あいつ、相変わらず私に色々文句言ってくる。でも仕方ないね。やっぱイラつく。ここでイラつくと思えること自体が、私は成長だと思う。
自分の正直な感情を受け入れて、それをそのまま言葉にすることができている。成長だと思う。周りの人からすれば、成長には見えないかもしれないけど。
「何を書こう」
と思ってしまう。でも、書きたいものはない。いや、書きたいものはある。いろいろと浮かんでくる。しかしどれもしっくりこない。いざ書き始めても、手が止まる。仕方なく気分転換に歩いて、家に帰ると、、もうそのファイルは開きたくなくなっている。今書くべき物語じゃない。そう感じる。
そういえば、私はちょっと前まで「私には小説を書く才能がない」とか言って嘆いていたけど、結局また書き始めているというか、そもそも才能がないと嘆いていた時期もなんだかんだ色々書いていたなぁと思って。
きっと、楽しいんだろうな。自分の一番伝えたいことが、伝えられるからだろうな。物語の方が、伝えやすい思いもあると思うんだ。きっと。
物語が書けないのはきっと、今の私に伝えたい何かや理解したい何かがないからだと思う。それならそれでいい。そういう時は、思考の整理だ。今私がやっているように、理性と直感の中間あたりに立って、正しいのか正しくないのかよく分からないことをつらつらと述べていくのがいいと思う。
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