自由な文体で書きます

 おそらく私は人より色々な文体で文章を書けるタイプの人間だと思う。
 人の文章を見ていると、皆何というか、ずっと同じ文体で書いている人ばかりに思える。自分の文章を見返してみると、何というか、他の人たちと比べて語り口が多様だなぁと思う。
 それもなんだかんだ、テーマによってちょうどいい感じに使い分けているような印象がある。意識しているかと問われたら……少し? まぁ分からないけれど、確かに私は、書く内容によって自然に文体が変わる傾向にあるみたいだし、そういうもんだと思ってやってる。

 ただ気を付けてることがひとつあるんだよね。それは、敬語。
 自然に書いていると、時々急に敬語が挟まってくることあるんだよね。多分、普段喋るときそういう傾向があるからだと思う。まぁそれか、おどけるときとか、ちょっと雰囲気を緩めたいときとか。
 でも、読み直してみて、一カ所二カ所だけ敬語があると「この子文章下手なのかな?」と思われちゃいそうだから、直すことにしてる。昔国語の授業で習った「文体は統一しましょう」というルールを意識している、というわけだ。でもこれはよく考えると、おかしな話なのだ。だって、そのルールは……それができない人のために設けられたルールであり、意識してそれができるのであれば、必要に応じてその場で文体を変えることは、表現技法のひとつとして成立するからだ。

 ずっと同じ調子で書かれた文章より、緩急がある文章の方が読みやすいし、楽しい。しかも、ためになる。(そもそも文章は、それを読んで理解することに意味があるのだから、読みやすく楽しい文章の方が、そうでない文章より、文章としての機能はよく果たしていると言えるはずなのだ)

 だから、かしこまった文体よりも、やわらかで、自由で、楽しい文体の方が、本来は文学的である、と言えるはずなのだ。あらゆるルールよりも、それを読んでいる人、つまり受け取り手の気持ち自体が優先されるべきなのだ。
(国語的なルールは、そのような受け取り手の気持ちを、ある意味書き手の側から制限することでもある。つまり何も知らない読み手に『文章はこうでなくてはならない』という刷り込みをすることによって、そうでない文章に対して『低劣』『幼稚』『誤った』『読みづらい』『読む価値のない』文章であるという印象を植え付けることに他ならないのだ。実際のところ、規則に従った文章を書くのはひとつのスキルではあるが、しかしそれは、人にものを正確に伝えることと全く同じスキルではない。国語という授業では、規則に従って書かれた『正しい文章』を読むことのできない人間を『日本語の文章を読めない人間』として扱うが、実際は『人が勝手に決めた規則に従った文章を読むことが苦手な人間』でしかなく、そうでない文章を読むことができるならば、その人間の言語能力は別に低いわけじゃないと捉える方が自然なのだ)


 まぁ色々とごちゃごちゃ分かりづらいことを説明したけれど、結局私は、私が優れているとか劣っているとか、人から思われることにだんだん慣れてきたし、わざわざ主張しなくても私の頭がいいことはどうやら他の人は普通に見て取れるみたいなので、これからは自由な文体で書こうと思います。(さっそく敬語! しかもよく『読みずらい文章の特徴』と言われる長い一文!)

 私はもうこれから、過度に「想定される読者」に縛られることはやめることにする。これからの時代、読む人間の生き方、考え方、見方は多様になっていく。だから「読者はこう思うかもしれないが」という書き方は、どんどんナンセンスになっていくのだ。

 人は「お前自身の考えをはやく教えてくれ。俺は俺で、自分で判断するから」と考えるようになっていく。普遍的な「正しさ」をもとに考えていく人はどんどん減っていって、どんどん、書き手と読み手が一対一で語り合うような、文章の在り方が広まっていく。

 私はなんだか、時代に愛されているような気がしてきている。私がやりやすいことや、やりたいことが、許されていく、認められていくような予感がある。

 多様性、いい言葉だ! 私のような、他の人間に従うことはできるが、どうしても自由を、自分らしいやり方を欲してしまう人間からしたら、とっても生きやすい時代だ!


 私は私にとってやりやすいことをし続けよう。結果のことは、もういい。自分のやっていることの質も、気にしない。私は私でしかない。私は私にとって望まない苦痛を感じてしまうことや、葛藤が産まれるようなことは、しないことにする。私自身が、それ自体を楽しく思えることしか、この先はしないことにする!(もちろん、きっと私はそれでも自分にとって苦でしかないことを『きっと意味がある』と思ってやると思う。そういう人間だから。でも今は、このように思っておく。そう思っていたいからだ)


 私は、私なりの文章を書いていくことにする。ルールや、他者の声、指南には耳を貸さず、私自身が「そう書きたい!」と思った文章をそのまま書き、勇気をもってそれを人の目に触れる場所に投げ出そうと思う!

 私は「読んでもらっている」のではない。私が勝手に投げ出したものを、人が勝手に読んでいるのである。そうであるべきだ。私は、読んでほしいとは思っているが、読んでもらいたいとは思ってない。そうだ。きっとそうだったんだと思う。

 だから、読んでもらうために自分の考えや文章を捻じ曲げるのは、これ以降二度としないことにする。

 私は私の書きたいという欲に従って文章を書こう! 人気を得るためや、誰かを元気づけるため、誰かの役に立つための「道具としての文章」とは縁を切ろう! 私にとって文章は、気持ちを伝えるための道具ではないのだ! 思いをつなぐための道具でもないのだ!
 それはひとつの触媒であり、投げ出された石ころ――それが誰かにとって宝石となる可能性を持つ――であり、読み手自身の心を映し出す、鏡なのだ!

 そうだ。私は私の気持ちを人に伝えることよりも、私の文章を読んで、その人自身が私の意図しない内的な変化を起こして、私とはまた違った考えを新しく産み出す方が、より優れていて、素晴らしいことであると思う! その方が世界はより豊かになるし、美しくなる。
 私は、自分の気持ちを伝えることよりも、相手の気持ちを動かすことを欲する。そうだ。ずっとそうだったのだ。私には、あまりにも「伝えたいもの」がない。私にあるのは「贈りたいもの」だけだ!
 そうだ。それを受け取ってどうするかは、その人の自由だ。私は、自由を愛しているから、自分が自由であることだけでなく、相手が自由であることをすら欲するのだ!

 そうだ! 自由に読んでくれ! 私は自由に書く。なんの規則にも縛られず、私が書きたいように書く。私がその時思ったことを、感じたことを、考えたことを、私が書きやすいように、書いていく。だからこれを読んでいる人たちも、その人自身がその時思ったことを、感じたことを、考えたことを、私という書き手のことよりも、優先して考えてほしい。そして、読みやすいように読んでほしい。読みやすいように読んで、解釈しやすいように解釈して、扱いやすいように扱ってほしい。
 私はあなた方に、自由であること以外、何もお願いしないことにしよう!
 だから私も私自身に対して、自由であること以外、何も求めないことにしよう!

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